#85 リトル・テンペスト
すすり泣く声に、眠りから醒めた。
辺りはすっかり明るく、炎がなくとも窓のない家中がはっきり見える。
うう、筋肉痛の代わりの気持ち悪い感覚がじわじわするな……。
震えた声は、強くもならず、弱くもならず、引いた線のように続いている。
泣いてるのは……詩歌?
なんで泣いてんだ。
昨日は……あの後、旨い肉料理を完食し、ラスリィへ到着したことと、海を渡れず止まってるとの報告を、クアへの手紙に書いて。
俺たちは、もはやすることがなく、トレーニングで疲労しているのもあって、寝た。
昨日泣いたのは、多分互いに感情が昂ぶってしまったから。
きちんと寝たのに持ち越すなんて……もしかしたら他のことで泣いてんのか?
原因になりそうなのは、この筋肉痛亜種しかなさそうだが……泣くほど辛いものじゃないし。
……なんで泣いてるんだろう。
心配だけど、声かけられないし……。
体を起こし、泣き声の方を向く。
横になったまま膝を抱える詩歌と、背をさすって慰めるラフェムがいた。
「どうしたんだ」
「ん、おはよう」
ラフェムは、ゆっくり上半身を捻って俺の方を向いた。
まぶたがとろりとしていて、ちょっぴりまだ眠そうだ。
たしか昨日、夫婦とまだ会話したいから夜更かしするって言ってたな。
徹夜特有の妙に爛々とした感じは一切ないから、ちゃんと寝たのだろうけど。
「なんかな、シーカ……怖い夢を見たようで」
まだ三日経ってないのに、悪夢を?
今までのは偶然で、規則性はなかったのか?
でも、俺は今日、なんにも見てないぞ……。
転生の後遺症とかじゃないのか……?
「そういえば君も以前、悪夢を見たとかで急に暴れ出したな。今日の彼女は暴れてないし、叫んだわけじゃないけど」
「詩歌はなんか言ってたか?」
「……嫌だ、来ないで、としか」
「……じゃあ、俺が夢に出たかなぁ? あはは」
おどけてみせたが、詩歌は何も答えない。
穏やかな波の音色と、小さなすすり声が混ざって、虚しく響き続けるだけの静寂が過ぎる。
ラフェムは気不味くなったか、体の向きを詩歌の方に戻した。
俺はなんも干渉できない。
薄い布団に潜って、なるべく気配を消した。
……夫婦が朝ご飯を持ってきても、心配して背をさすっても、頭を撫でても。
俺たちだけで食事を終えても、俺らだけ先に着替えても、出発の準備が整っても……。
詩歌はめそめそ泣き止まない。
相当酷い夢だったようで、かなり参ってるようだった。
俺は、黙ってるしかなかった。
ほんとに俺が夢に出たのなら、俺のせいだし、俺には何もできないし。
彼女も、俺を見ようとはしなかったから。
もし、もしも、夢に出たのが、本当に俺だったのだとしたら……。
…………旅、続けられるのかな……。
「シーカ。今から僕たち、船の交渉に行ってくるから、ここでしばらく休んでなよ。エイオータさんが一緒にいてくれるから怖くないよ」
ラフェムは彼女の正面でしゃがんで、迷子の子どもに語りかけるように優しく言う。
詩歌は、いつものトゲトゲしい雰囲気も勝ち気な態度も全部引っ込んで、ずいぶん小さく丸くなってしまった。
涙でしわくちゃになったシャツの裾を引っ張り、目を拭きながら、黙って何度もコクコク頷く。
いいよな、ラフェムは……。
顔も良いし、性格も悪くない。
この通り詩歌、ラフェムのことは嫌がってないし。
既に両想いの彼女もいるし。
俺とは大違いだ。
やっぱり、似てるなんて思えない。
羨ましい……。
妬みの視線に気付いたか、ラフェムがハッとして振り向く。
幽霊でも見たかのように目を丸くして驚くと、さっと立ち上がって、木のスツールに座って俺たちの様子を見守っていた夫妻の傍へ、そそくさ逃げた。
「そ、それじゃあ、シーカをお願いします。すぐ帰ってくると思いますけど……」
「いってらっしゃい。ぺすぺすくん、船出してくれるといいわね」
「そうですね。それでは行ってきます」
ラフェムが微笑み、会釈しながら出入り口の戸を押した。
俺もその後についていく。
────────
「また来たの? 父さんは帰ってきてないから、今日も船は出ない」
フィペスカは、家から出てくるなり俺らを睨むと、不機嫌そうに答えた。
そして、何も話すことはないと言わんばかりに、素っ気なく背を向ける。
わかりましたで帰れない。
ラフェムが、待ってくれと声をかけて引き留める。
だが止まる気配はない。
慌てて話を続ける。
「すまない……君の父さんは亡くなられたと、昨日エルレーゲ夫妻から教えてもらった。そして、君が運搬船を継いでいることも聞いた」
萌黄の頭がぴくりと揺れ、止まった。
扉を掴んでいた、歳不相応な厳つい角ばった手に、グッと力がこもる。
ゆっくり振り向き、更に眉間に皺を寄せて睨みつける。
「どうであれ! 魚がいるから無理だ! しばらくは、絶対に、船を出さない……!」
俺よりも年下なのに。俺よりも小さいのに。
獅子に見下されているような緊張と威圧感に、思わず身が竦む。
心に相当の覚悟が据わっている、重たい否定だった。
絶対に船は出さない。
揺るぎない意志。
彼の心境は、思いは、俺なんかにはわからない。
でも、航海には触れられたくないのだと、ハッキリわかる。
ラフェムは、ぺこりと詫びのおじぎをする。
「嫌な事を聞いてすまなかった。なら、船を貸してはくれないか?」
「何言ってんだ! 駄目だ!」
「でも、こんなに長い間待ってられないんだ。一日でも早く海の向こうに行かなきゃ。ドラゴンを殺しに行かなきゃ……」
「素人だけで海の向こうなんて、なんて向こう見ず! 結末は見えてる、魚の餌さ! 群れが過ぎるのを大人しく待ちなよ!」
「待ってなんかられない! もしその間にドラゴンが復活したら、もう手遅れなんだ!」
怒鳴るフィペにつられたか、ラフェムの声も荒んでくる。
「ドラゴンに会う前に死にたいの!?」
「なおさら船を出してくれよ!」
「しつこいなぁ……!」
二人は口をグッとへの字に曲げて、睨み合う。
これじゃあ、喧嘩になりそうだ。
それに、もう進展は望めない。
二人共、折れるような軟弱者じゃない。
これ以上は時間の無駄になる、デメリットしかない。
「ラフェム……俺、多分船なら出せる。もう行こう」
肩で息をする彼の袖を軽く引っ張って、気を引いた。
置いてけぼりの俺の顔を見て、少しは冷静になったか、眉間のシワが浅くなる。
「そうだな、君は空を飛んだぐらいだし」
「三人が乗るには凄い小さいと思うけど……イケると思う」
ホントは飛ぶのが一番良いのだろうけど……。
あのパラシュートは、二人揃って一時的に上がるので精一杯だった。
慣れない操縦で、二人ぶら下がり続けるのは辛い。ラフェムはまだしも、詩歌が次の大陸までずっと掴み続けられる気力は無いだろう。
そもそも、パラシュートが三人目の重みに耐えられない。
というか、浦風で叩き落とされるか遭難する。
ビリジワンで待ってるドラゴンに頼みたくとも、彼はまだ癒えてはない。
それに、ここからビリジワンへの崖ははっきり見えるが、次の大陸は違う。きっとかなり距離がある。
無茶させて墜落させたら大変だし、辿り着けたとしても、大きなドラゴン急に姿を見せたとなると、フォレンジはパニックになってしまうだろう……。
やはり船しかないのだ。
未だガン飛ばすフィペスカに背を向け、海の方へ向く。
進もうとした足は、ニ歩目が出なかった。
「出させない」
フィペが、俺の肩を掴んだから。
木に括られたように、体を動かせなくなった。
俺より小さな体で、こんな力を出せるとは。
「離してくれ。なんて言われようと行かなきゃいけないんだ。それが死への道でも……。昨日からもう覚悟してたんだ」
フィペはわざとらしいため息をついて、肩を思い切り引っ張った。
体はくるんと半回転。再び彼の方を見ることとなる。
むりやり目を合わせられ、覚えていない記憶が心拍を跳ね上げ、不安を掻き立てる。
「どうしても行くつもり? なら」
言い終わるより先に、手を突き出した。
肩や胸を突き飛ばされるのに慣れた神経が針に触れたように痛み、一瞬でどうするべきかを計算し弾き出す。
左腕を後ろへ引き、身を捻った。
彼の手が、無を押した。
風圧が、胸を掠り、彼がよろけた後。
背後の海がドパンと鳴る。
角張る崖に、高潮が当たったような音。
だが、ここには崖どころか岩もない。
波は、家から出るときに見た。
眠ったように穏やかだった。
魔法を撃ったな!?
避けなかったら、海を鳴らしていたのは俺だっただろう。
敵意に、全身の筋肉が瞬く間に引き締まる。
「ボコボコにして動けないようにしてやる!」
怒号に紛れて、背後から迫る唸る風の音。
咄嗟にしゃがむと、萌黄色に具現化した鎌鼬と共に何本もの木の枝が、鳥の群れのように頭上を過ぎて、フィペスカの手中へと集まった。
「なにすんだ!」
「うるさい! 海は諦めろ!」
フィペスカは、家の出入り口の横に、表札看板面して刺さっていた木の棒を抜き取った。
違う、棒じゃない……。
形は真っ直ぐではなく、曲面。
そして人為的に表面を滑らかに整えられてある。
よく見れば、細い糸が端から端に張られていた。
透明な糸は、水面のようにキラリと輝く。
……これは、弓?
棒に気を取られ、まだ立ち上がれていない俺を狙って、彼はナイフを奮うように、一本の木の枝を天へ掲げた。
流石に棒は痛くない。
だけど、闇雲に無意味なものを振り翳すほど、冷静さを欠いている訳でもない。
剣は置いてきてしまった。
本を出すのも書くのも間に合わない。
避けられるか……?
「エンジャロサラウィズフレイミア!」
ラフェムが俺の前に出て、炎のレイピアを宿し迎え討つ。
ギンと、刃物が擦れ合った音がして、二人の腕は止まった。
棒が、暴風を纏っている。
風が、エメラルドの鋭い刃を作っている。
矢だ。
ただの木の枝に魔法を付与して、矢にしている。
ただ、所詮は枝。
フィペスカの握力と、ラフェムの圧力に耐えられず、容易く折れる。
フィペスカは、折れるのを見越していて、既に砂を蹴り後ろへ跳んでいた。
剣は空を捌き、手放された枝は引火して、あっという間に燃え尽きる。
その灰を払うように、手首で刃を振った後、真っ赤に輝く切っ先を、ゆっくりとフィペスカへと向ける。
「君がその気なら、容赦はしない」
「そう、どーぞ。というか、そっちのほうが現実見れていいでしょ?」
フィペスカは、挑発するように嗤う。
眉間の谷は残したまま。
突如萌黄の風が足元から噴き出し、彼を守護するように周囲を駆け巡る。
手放した小枝、落ちていた枝や細長い木片が次々巻き込まれて浮かび上がり、ぐるぐると円を描く。
まるで小さな台風だ。
その中の木片を一個掴むと、即座に魔法を纏わせ射出。
すでに、炎のレイピアが打ち返すべく動いていた。
「痛っ!?」
すれ違い、ラフェムの右肩に衝突。
赤の光がはじけ、木片は彼方へ吹っ飛んだ。
穿たれはしなかったが、喰らったことは確かだ。
間に合わなかった訳でも、外したわけでもない。
矢が、避けたのだ。
二人は、再び止まって睨み合う。
威嚇のように低く轟く魔法の竜巻。
張り合うように、燃え盛る炎の弾ける音がする。
なびく髪だけが、時が流れ続けていることを教えてくれる。
互いに睨んで、睨んで、睨み続けた。
そしてようやく、フィペスカが動いた。
足を開き、再度口角を下げて、俺たちを指差す。
「正直に言うけど、オイラは魚より弱いから!」
6/3 誤字脱字などを訂正しました




