#81 追われ止められ
どこまでも続く白い砂浜。
右は果てしない海。
左は背丈の倍はある岩盤と、その段差の上に続く深緑の森。
二匹目のラグンキャンスと戦ったのは、この辺だったかな。
「あ、ラグンキャンス」
ラフェムが左手の指全部をピンと揃え、前方を指した。
目をこらす。
確かにいる……といっても、かなり遠くて、ここからじゃ浜辺を針金がうねっているようにしか見えないのだが……。
よく見つけたな。
「うーん、見つかったらちょっと面倒くさいかもな。そこの岩壁登って、上を通っていくか?」
「そうするか。ちょっと確認する」
ラフェムが祈るように軽く掌を合わせ、瞼を閉じる。
茜髪が一方通行の潮風に逆らい、外套の紋章が淡く光った。
煙のような炎が、指と指の隙間から漏れ出し、それぞれが自我を宿した羽根のように、岩盤の大きな亀裂に吸い込まれるように入り込む。
「……うん、待ち伏せしてる個体はいないみたいだ。ササッと登るぞ」
「おう」
身長二倍の壁など、なんのその。
一歩二歩、ちょっとした助走をつけて跳べば、手を使わなくとも簡単に上に登れる。
まるで忍者やヒーローのように。
……あっ、それでも下を見下ろすのは……ゾクっとするな。
壁の上は、乗り出した幹と根が無作法に絡んでいた。
岩肌は靴二個分ぐらいの長さしか見えず、後から先は黒い土に隠れている。そこから始まる林は、白い霞で消えるまで、ずっと続いている。
巨大な岩の上に土が積もって、植物が生えているのだろうか?
それとも、地震か何かで地面がずれて、こうなったのだろうか。
平たい葉に目一杯光を当てようと、砂浜へと枝を伸ばす木々のお陰で夏の陽射しが遮られ、心地よい涼しさだ。
下の砂浜とは打って変わって、緑と土の匂いが強い。海の匂いが覆い隠されている。
二回目の長い砂浜だけど、目線の高さが違うだけで、こんなにも新鮮な気持ちで歩けるんだ。
塀を歩く猫は、同じように景色の違いを楽しんでいるのだろうか。
そんなことを考えながら、どんどん進む。
俺の前には、葉の音と香りを楽しんでるラフェムがいて。
後ろには、気分がいいのか小さな鼻歌を歌って歩く詩歌がいて。
友だちと冒険してるって感じでいいな。
いや、そうなんだけどさ。
「グォングォ……」
工事現場の重機が軋むような音を、耳が捉える。
これが動物の鳴き声って、未だに信じられないな。
さっきのラグンキャンスは、小型犬ぐらいの生き物と争っていた。
全身はマットなカーキグリーン、木の枝のような角と、鞭のように長く硬い尻尾を持つトカゲ。
鳴き声といい、間違いなくレプトフィールだ。
二匹とも、俺たちの気配に気が付いていない。
砂を掻き、風を裂いて激闘を続けている。
生の弱肉強食の戦いを見られるのは、中々無い。
バレぬように息と身を潜めて、ちょっとだけ観察することにした。
虫は、足元でちょろちょろ走り回るトカゲを首を自在に押し曲げ回転し、頭だけで追う。
トカゲは、隙あらば光の弾を撃って、鎌の動向を窺う。
素早い薙は難なく躱され、光の弾は白い巨体の表面を滑るのみ。
互いに有効打が無く、根比べをしているみたいだ。
……いや。
ラグンキャンスが、戦闘を学習している。
トカゲの動きに合わせて、跳んだ後の軌道の先に攻撃を置いたり、四本もある足を障害物として使ったりしている。
わからなそうに首を傾げる頻度も減った。
……レプトフィールも負けてはいない。
尻尾の鞭を、隙に的確に合わせて関節や気門に叩き込んだり、複眼や触角めがけて光を撃ち込んだり、身軽さと知能をフル活用して、強くなっていく敵に歯向かっている。
狙った獲物を逃さないラグンキャンス、逃げを知らないレプトフィール。
成長が頭打ちになれば、相手を凌駕する思考を出来なければ負ける。
二匹だからこその戦闘だ……。
──突如、背中に鋭い電撃が走る。
実際に痛みを感じた訳じゃない。
嫌な予感が、虫の知らせが、俺に危機を知らせたのだ。
咄嗟に振り返る。
ラフェムも何かを感じ取ったのか、俺よりも若干早く後ろを向いていた。
「げえっ!」
なんてこった!
白い巨体が、林の奥からずんずん歩いて、こっちに向かってきているではないか!
……危険予知じゃない! 下草を折り曲げた音が風の音に混ざっていた!
存在を認識した瞬間、その乾いた音はより鮮明に聞こえるように!
「お、おおおっ! 逃げろーー!!」
叫ぶよりも先に、足は土を蹴っていた。
また戦闘になってはたまらない!
そうだよな!
そうだよな!
あんぐらいでかけりゃ、岩の上も普通に登るわな!
というか、普段の狩場ってこっちなんじゃねえの!?
あの緑トカゲみたいな戦闘狂でも無ければ、あんな怖いのがいるだけの砂浜に、小動物が降りてくるわけないでしょ!
…………その大きさが仇となり、幹や根に阻まれたことで、ラグンキャンスがあの驚異のスピードを発揮することはなかった。
それでも、足の速さはとんでもない。未だ虫は俺たちの通った岩肌を爪で掻き鳴らし、追いかけてきている。
一度捕えた獲物を逃さないのだから、捕らえる前の獲物にも、物凄く執着するのだろう。
この通り……。
「あーーしつこい! ラスリィまで追っかけてくるんじゃないの!?」
「そうなったらもう倒すしかないだろうけど……なるべく殺したくないな、大変だし……食べれるところなさそうだし」
街にまで追っかけてこれるほど嗅覚が効くみたいだが、ひょっとしたら、俺たちの臭いはまだわかっていないんじゃないだろうか?
一度捕まえた獲物は逃さない、じゃあ捕まえていない獲物は?
この森には餌となる他の小動物がわんさかといるだろう。
もちろん、餌だけが臭いを発しているわけでもないし。
それらの臭いと、俺たちの臭い。
混ざり合ってて、まだ特定出来ていないんじゃないか?
俺たちが視界に入っているから、追跡しているのだとしたら。
そうであるならば、視界から外れれば、あるいは引き離せれば……。
本とペンを取り出す。
……走りながらだから、めちゃくちゃ書きにくい!
まずは『レプトフィールの臭い付きデコイ』を書いて、現れた拙い出来のぬいぐるみを、詩歌に持ってもらう。
続いて『腐敗臭とヘドロの悪臭入り煙幕』を……!
あ!
うおっ!
焦りすぎて、後ろに向ける前にペンを離してしまって、前方に煙が噴射!
もろに浴びちまった!
「なっ!? うぇっ! げほっ!」
「なんだこれっ! ごほっ、くっせえ! こんな一大事に屁するな!」
「違う!! 詩歌、ぬいぐるみ後ろに投げて!」
彼女は渋いものを舌に乗せたみたいな、シワシワのしかめっ面のまま、八つ当たりか思い切りぬいぐるみを後ろに投げ捨てた。
最悪な緑煙の中に、ぬいぐるみは消えた。
俺は無意識に息を止めたけど、悪臭を出そうとしてた事を知らない二人は、思い切り煙を喰らってしまったから、完全に意気消沈してしまった。
この世の終わりみたいな顔だ。
…………申し訳がなさすぎる……。
気不味い無言のまま、一気に森を駆け抜ける。
そのまま、多分村の人が使っている、緩やかな下り坂に作られた畑を抜けた。
足場は土から砂へ戻る。
砂浜に、縦長の木の板を立て円を作っただけの、まさに海の村といった質素な家がポツポツ並ぶ村、ラスリィへ到着。
……おや、家の配置は変わっていないな。
もしここまで着いてきているのなら、戦わねばならない。
振り返り、戦闘態勢で来た道を睨んだ。
いつまで経っても、ラグンキャンスは出てこなかった。
デコイに騙され止まったか、煙に錯乱しているうちに見逃したか、それとも臭いがわからなくなったか、そもそも諦めたかはわからないが、とにかく撒くことには成功したようだ。
とりあえず、開けっ放しだった本を仕舞った。
緊張がようやく抜ける。
「あーーーー……」
詩歌が、伸ばしきって最後なんか、もう息絶える寸前ぐらいの、力なくやるせない声を出して、しゃがんだ。
「吐きそ……マジ、臭っ……! おぇ……バカ……」
「ごめん……」
「なんて書いたんだ? 屁か?」
「違う、腐敗とヘドロ」
「本当にか〜?」
「本当だが〜?」
ひどくないか?
俺の力が、想像の力と分かってて言ってる。
ラフェムは肺の中身を入れ替えるように、何度かわざとらしい深呼吸を繰り返した後、海の方角を見た。
「あー、はやく爽快な海風を浴びて忘れたいとこだな。夜、ネロンさんが腕利きの船乗りの名前を教えてくれたから、早速その人のとこへ行こう」
「そうだな……」
動かないままの詩歌を抱えて持ち上げたが、完全にやる気を失っている、足首がぐにゃぐにゃ曲がって立たせられない。
……そ、そんなに臭かった……?
仕方がないのでしばらく引きずっていたら、恥ずかしいからやめてとちょっと怒られた。
そしてちゃんと自分で歩くようになった。
板があれはその上を進み、無い場所では靴に砂が入らないか確かめながら歩き続け。
周りの家と比べて、壁に描かれた柄が多い家の前で止まる。
「フィペの家か」
「そうだ。シャードール・シェオラージュ……これがネロンさんが教えてくれた者の名だ。互いに張り合ってる地域なのに薦めるぐらいだ、相当優れた操縦技術を持ってるとみて間違いない。名前から、おそらくフィペスカの家族だろうと思ってな」
ラフェムは軽く戸の横を叩く。
……出てこない。
もう一度、今度は扉をちょっとだけ強めにノックした。
両開きの扉は、ギコギコと前後に揺れた。
「……オイラに何か……あ」
のそっと、萌黄色のつんつん頭の少年が、全身を使ってドアを押し開け、気だるげな猫背で現れた。
あれ? あの元気はどこ行った?
以前会った時の雰囲気と全然違うじゃないか。
まるで、前のラフェムみたいなんだが……。
不審がり、二人と顔を見合わせた。
「……やあ。僕たちフォレンジに行きたくて、シャードールさんって人に会いたいんだが、えっと……ご両親かな?」
「…………父さんは居ないよ。今日は船は出ない。だから諦めて」
フィペは素っ気なく言って、家の中へ戻ろうとした。
ラフェムは慌てて、彼の肩を掴んで引き止める。
「こ、困る! 僕たちは早くフォレンジに……」
「船は出ないの! 出ないものは出ない!」
怒鳴る彼の目は本気だった。
なんと言われようが、絶対に出さないという意志。
これにはラフェムもビビったか、背を正した。
「ラフェム……。船を修理してるとか海が物凄く荒れてるとか、そういう事情があるんだろ。彼の父さんも留守にしてるみたいだし、今日はやめよう」
「だ、だけど……」
彼は反論しようとするが、声を詰まらせる。
だって、船乗りじゃないから。
船に乗れない理由なんかわかるわけないし、無理と言う船乗りにゴネても、どうにもならないことは理解はしている。
はやる気持ちに焦って、どうしようもなくなっているだけ。
互いに喋らず、気不味そうに睨み合う。
風が過ぎ、灰色の海鳥が水平線から姿を見せて、また消えていく。
ようやく、彼の肩から手を離した。
解放された少年は小さなため息をつくと、口を閉ざしたまま、膝で扉を押して家へ入っていった。
立ち尽くす友。
船に乗って向こうの島に行く予定しかなかったから、どうしたらいいのかわからないのだろう。
だからといって船を出せと言ったら、それはラフェム・クレイマーだけど。
「とりあえず、クアのご両親のところへ行ってみて、他の船乗りの事を聞くなりしよう。もし頼れる船乗りがフィペの父さんだけなのだとしたら……一晩だけ居場所を貰って、明日また訪ねよう」
「そうするしかないようだね……行くか……」
ラフェムはフィペに負けぬ猫背になって、とぼとぼ歩き出した。
……なんで、フィペはあんなに暗くなってしまったんだろう。
落ち込んでいる? 怖がっている?
あんなに元気はつらつな、明るい少年だったのに。
原因はなんだ?
ドラゴンのせい?
そうだったら、俺たちが倒れた時点で様子が変わってるか。
うーん、見当つかない。
……考えても仕方ないか。




