#72 その装甲の弱点
虫は視界を取り戻したようだ。
赤い単眼を鎌の先で器用にこすり、その後緑の複眼を両腕でぬぐう。
怒りの声の代わりに、重く激しい呼吸の音が聴こえた。
彼女の隣に立ち、見上げる。
勇ましき瞳は、強敵を見据えていた。
アトゥール住みの彼女なら、この虫をどう倒すか知っているかもしれない。攻略の手立てを掴む情報を持っているかもしれない。
「あの、ラグンキャンスってどうやって倒すんですか?」
返答より先に、鎌が迫る。
身を翻し直撃を避けるも、そのまま割り込んできた巨大な体によって、彼女と分断される。
俺は正面に。彼女は裏へ回り込む。
ラグンキャンスは、その長い首を思い切り引く。中央に顔を持ってくれば、その広い視野に両者とも入れられるからだろう。
動かせぬ足を狙われる事を学習したか、その巨体をぐるぐると回しながら、蹴りや引っ掻きを繰り出した。
タップダンスからバレエへ変わった攻撃。
戦いの初めより、格段に避け辛くなっている。この戦いを長引かせるのは、危険かもしれない。
「すみません……ラグンキャンスは、通常人を襲わないんです。だから戦ったことも情報もなくて……」
白き爪の嵐を潜り抜けながら、彼女は申し訳なさそうに答える。
「人を襲わない? じゃああの虫は、普段何を食べてるんですか?」
「レプトフィールなどのトカゲや、私達より小さい生き物で……。本当は春だけなの、気を付けなきゃいけない時期は……」
「春……ルシエからも聞きました。もしや、冬眠……の後ですか」
「そう……。あの凍てつく日々……皆が凍えないようにするのに一杯一杯で、気が回らなかった……いいえ、忘れてたの。だから、この騒動は、私のせい……」
彼女は唇を噛んだ。
酷く重く責任を感じているようだった。
今にも首に刃を突き立ててしまいそうな、自身への失望と絶望の色。
張り手を食らったように胸を揺さぶられ、痛みがじわじわと広がる。
「後悔するかは後で決める事。今は、子どもたちを助けることに集中しましょう」
あまりにも、可哀想だったから。
辛い表情を見るのは好きじゃない。
だから、少しでも和らげられたらと思って、柄にもない事を言ってしまった。
「……ええ、そうね」
ほんの少し、彼女の表情が緩んだ。
滲んだ血を拭うと、後悔に割かれていた気持ちを全て虫に向けたのだろう。澄んだ瞳は、回る敵をまっすぐに見つめた。
ああ、良かった。ちょっとは肩の荷を降ろすことが出来ただろうか。
……しかし、以前戦ったレプトフィール。あのトカゲは寒さに強いと聞いたが……ビリジワンとの境にまで来れた理由は、それだけではなかった……!
アイスドラゴンの影響による急な気温低下に適応できず、ラグンキャンスは不完全な冬眠を強いられていたんだ。
トカゲは寒空の下、天敵がいないから襲われることなくビリジワンの坂まで渡って来れたんだ。
冬眠するには、莫大な脂肪を蓄える必要がある。
仮死状態とはいえ、生きているからにはエネルギーを作り、体を腐らぬよう、凍らぬよう保つ必要があるから。
備蓄もないのに冬眠し、死ぬことなく目覚められれば……死に瀕した空腹が待っている。
腹を満たすため、生きるため、普段は選ばぬ獲物に牙を向けることもあるだろう……。
子どもたちが襲われたのは、そういう訳だ。
…………可哀想だけどさ。仕方がないんだよな。
熊と同じだ。境を破ってしまったのなら……。
どちらかが、死ぬしかないんだ。
「あの……すみません。……気門……呼吸の穴がどこにあるか知っていますか?」
「いいえ。目的は?」
「弱点です、硬い外殻に覆われている奴の唯一柔らかいところかもしれない。だから、そこを見つけて渾身の一発を叩き込めば……。他にも助けなければならない子が待っているし、この虫は学習している……だから、出来るだけ速く……」
「探してみるわ」
彼女は話す時間も惜しんでいた。
俺が言い終わる前に会話を切り上げ、真剣というか、切羽詰まった鬼気迫る表情で、ラグンキャンスの爪鎌嵐を凌ぎながら、全身を忙しなく観察し始めた。
爪は俺を、剣は虫を、陣取り合戦のように隙を見つけては突撃する。
最初はどちらも傷を追うことなく、五分五分で攻撃を仕掛け、守っていた。
だけど、虫は次の手を出すスピードを速めていく。
次第に、俺の防御比率が上がっていく。
やばい……主導権が奪われていく。
受け身でいることの危険はわかっている。
しかし。
これをひっくり返す発想はない。
下がれば、俺の分の攻撃が全て彼女に飛ぶ。
自身の事で精一杯で、彼女も押し負け焦っているのか、それとも余裕なのか知ることができない。
我が身可愛さに、彼女を危険に晒すわけにはいかない。
詩歌の魔法も、そもそもまだ戦いなれていないし、歌という息を吐き続ける関係上、息継ぎや疲労で時折弱まり、ムラが出始めた。
魔法が弱まるというということは、弾き返す力が弱まると同義。二人合わせてやっと対等なのに……。
焦燥に駆られ、被弾の心配が脳裏を掠めた次の瞬間。纏った炎の濃度が弱まった。
虫は狙っていたかのように、両鎌フルパワーの回転切りを剣にぶつけてきた。
「うっおあ!!」
腕に引っ張られ、体が不意に浮く。
ラフェムのような魔法など持っていないから、空中で自分の動きを制御出来ない。
無防備と化した俺の腰に、回ってきたキックがもろに当たった。吹っ飛ぶより先に、白い足が内側に折り曲げられる。
俺は線路の上のトロッコみたいに、足をなぞってラグンキャンスの方へと引き込まれた!
「うっ! げ、ふっ……!」
鉄球のように硬い頭が、俺のみぞおちにめり込んだ。
迎え撃つように、頭突きされた。
息が漏れると共に意識まで手放しそうになった。
それはなんとかこらえたが、指から力が抜けて、武器は手放してしまった。
風を切る音。
あっと言う間にラグンキャンスが遠ざかる。いいや俺が吹っ飛んでいる。
ぐるぐる回転する視界、臓腑に響く重み。
吐きそう。
「きゃあ!」
俺の被弾が、彼女の集中を削いでしまったみたいだ。
その刹那に、彼女の短剣が蹴り飛ばされるのを見た。
吹っ飛んでいた体の高度がようやく下がった。
体が地面に打ち付けられ、跳ね、また打ち付けられ。
夏の日差しで熱された砂より、四肢がぶつかり打撲する痛みの方が熱い。
俺が砂の上で滑り終わるより前に、キャタピラに轢かれるように、彼女はラグンキャンスの下に引き摺り込まれる。
「う、ああ! 重いっ! うううっ!」
「し……まった……!」
両肩を二番目の足の爪で押さえ付けられ、彼女は呻きとも叫びともとれる声をあげ、悶える。
歌の魔法は刃から離れ、彼女を助けようとラグンキャンスに体当たりを始めるが、つるつる滑って意味がない。
打ち身の痛みが俺を揺する。
だけど、そんなのに負けてしまっては、彼女が潰されてしまう。
まだ子どもが、ルシエの友だちが待っているのに。
これから、世界を護るために戦うのに。
そう思うと、痛みを上回る無尽蔵の勇気が熱く燃え上がって、意識を奪おうとする苦を鎮める。
「今……戻る……!」
落とした剣に向かって駆け出した。
砂にまみれた武器を拾い上げたら、今度は彼女を踏み潰す悪い足にターゲットを変更する。
全身全霊を込め、白銀の剣を振りかぶった。
「見つけたああっ! 首が付いている板の裏側に……穴がある! 私はいいから! 動けない今のうちに!!」
叫び。
咄嗟に、盾のように構えて待ち受けていた鎌を通り過ぎた。
スライディングで、彼女を押さえる足と、一番後ろの足の隙間を滑り抜け、虫の懐へ潜り込む。
言う通り、背であろう部位の裏、中央のカーブの膨らみ最高点に、指が入るほどの穴がいくつかあった。
俺たちの背の高さではこの部位は表、精々側面しか見えない。飛んだりして鎌を避けているのだから、尚更だ。
穴は興奮からか、目視出来る速さで伸縮している。ということは、硬い装甲よりもこの部位は柔らかいはずだ。
これなら!
ラグンキャンスが振り向くよりも、俺を蹴り飛ばすよりも先に。鍔の下を握り締め、その穴めがけて剣先を突き上げた。
白い巨体がビクっと痙攣した後、逃れようと体を更に浮かせるように持ち上げるがもう遅い。
外殻の裏側にまで到達したようだ。
皮膚はゴムのようで、切先から次の角をちょっと過ぎた辺りまでしか入っていないにも拘らず、喰い込んでハマったみたいで、重力では抜けなくなる。
息を吐いたか、植物をすり潰したような濃い緑の血飛沫が飛び散った。
そして、白銀のミゾに、内部に満たされているべきその液体がドロドロと伝って垂れ流れ始める。
拘束が緩んだらしい。
ポンと、小気味よい音が二つ弾ける。
光魔法を爆弾のように使い、肩を掴む爪を押し上げたらしい。
転がるように彼女は脱出。
いつ倒れるか、やけっぱちの蹴りが飛んでくるかわからない。俺も急いで虫から離れた。
ボタボタと落ちる血。
乾いた砂の上に落ちればあっと言う間に吸い込まれ、黒に近いシミになる。
巣に逃げようとしたのか、ラグンキャンスは俺たちから背いて、千鳥足で岩場の方へ数歩歩いた後、横転する。
ひしゃげたように首を曲げ、懸命に後ろ足を動かして取ろうとしているが、震える爪は中々剣に引っかからない。
ちょっと血の気が引いた。
このまま放っても死んでしまいそうだが……。
……とどめを刺そう。
俺は本を取り出し、炎魔法の詠唱を綴る。
緑の液が漏れ出す穴の近くと、こっちを向いたナックルガード目掛けて撃った。
火球が剣を押す。
火球が腹を抉る。
弱ったラグンキャンスには、もう魔法に耐える生命力は残っていなかった。
緑の液体が花火のように弾けた。
同時に、長い首から力が抜けて、頭が砂の上へ落ちるように倒れると。そのまま動かなくなる。
剣に捌かれ開かれた場所から、空気の運搬用と思われる管と、薄っぺらい何も入っていない袋のような臓物がはみ出ている。
これで……。
終わったのか?
……そうだろう。
本気で……本気で危なかった……。
勝ちを知った途端、膝が笑いだした。全く笑えなる状況ではないのに。
ドーパミンか何かに誤魔化されていたんだろう、攻撃を食らった部位の痛みが増してきて、気持ちが悪くなってその場に座り込んでしまった。
「あと……あと四人……」
勝ったのに、胸を満たすのは喜びではなく不安。
何も知らぬ相手に、無計画で挑むのは無謀すぎたようだ。こんなに手強いとは……。
詩歌が隣にやってきた。息は絶え絶え。相当無茶をして援護してくれていたらしい。
巨体虫の死体は刺激が強すぎると案じたか、ルシエを連れる方法がおんぶから抱っこに変わっている。
黄髪の彼女もやってきて、へたり込んだ。
「このまますぐに……新しいラグンキャンスと戦うのは危険すぎる……ちょっと休みながら、すぐに倒せるように、戦略を考えよう……」
反対する者はいない。
誰彼も疲れていたし、焦って無策で突っ込めば、次こそ全滅して餌になるとわかっていたから。
ただ、発想を紡ぐ言葉は出てこない。
あまりにも疲れすぎた。聞こえるのは、海の波と皆の荒い呼吸だけ。
ルシエは、どうやらだいぶ回復したようだ。
もうぐったりしていない。完全に疲労が無くなっている訳はないようだが、そわそわして、辺りを見ようと試みては、向こうを見ては駄目だと胸に押さえつけられている。
友だちが死ぬかもしれない不安と恐怖に耐えられないのだろう。
でも、今はどうしても動けない……。
「ごめん、ルシエ……頼りなくてごめんよ……俺がもっと強かったら、こんなことには……」
「え? ううん! みんな強いよ、まるで勇者! かっこいいよ!」
ルシエは詩歌の腕を押し切り振り向くと、ねじ切らんばかりに首を横に振り、懸命に話す。
「ぼくね、もう死んじゃうんだって怖かった。だけど、真っ暗の石から出してくれて、ラグンキャンスを倒してくれて、本当に勇者だって、かっこいいなって。憧れちゃってる! 頼れる人だって思ってる、頼りないだなんて、思えないよ!」
小さい肺に何度も空気を詰め込んで、俺たち三人を元気付けようと言葉を発する。
穢れのない澄んだ水色の瞳が、きらきら輝いている。
「今、友だちが心配で、そわそわしちゃってる。わかってるんだ、考えてから行かないと危ないよね。わかってるけど、我慢できなくてごめんなさい。でも、ヨーセたちなら、絶対に皆を助けてくれるって信じてるよ、本当に! だから、謝らないで!」
「ありがとう、ルシエ」
「え? どうしてヨーセがありがとうって言うの?」
「勇気が湧いたからさ」
詩歌も、彼女も、誇らしげに微笑んでいた。きっと俺も……。
幼子の偽りない言葉は闘う意志を鼓舞し、挑む決意を煌めかせる。
大きなパラソルと本に綴る。
ぎりぎり四人が影に入れるサイズのものが出た。
柄を砂に刺して、それを軸に、輪になってもらう。
夏の日差しの下に居ては、体力を奪われてしまうからな。
そして意図はもう一つ。未だ餌にありつけていない他の虫のターゲットにならないために。
パラソルの下で固まることで、岩の隙間に連れ込めないほど巨大な生物と錯覚して貰えれば、襲われずにすむ。
「さあ。作戦会議を始めようか!」




