#71 見知らぬ助っ人
また虫は首をかしげている。
自分の腕に絡みついたものが何だったのか全然わかっていないようだ。
歌の終わりと共に消えた糸を探して、砂の表面をひっかいては首をひねる角度を大きくしていく。
「詩歌、ラグンキャンスが追いかけてこないギリギリまで離れてくれ。ルシエ、ラグンキャンスについて何か知らないか?」
「わかった……応援、してるわ」
「ええと知ってること……ラグンキャンスは首が後ろまで回るよ!」
「他には?」
「あとは、春は危ないから近付いちゃ駄目って」
刺激しないようゆっくり、ラグンキャンスを軸に周ってみる。
虫は、ワイヤーの入ったおもちゃのように首動かし、俺を見続けた。確かに後ろまで回る。それどころか、百八十を超えて回っている。流石に一周は出来ないらしく、あと少しのところで、メジャーとか掃除機のプラグを戻すような勢いでズバッと戻って、また俺を見つめた。
ただ……これらの情報は戦いの役に立つのか?
元の位置で立ち止まると、ラグンキャンスが、不意打ちに手を出した。
軽く跳んでかわすと、また頭を傾げた。
「今まで戦った野生動物より呑気だな……猛者ゆえか……」
トカゲやリスだったら、先程の詩歌が紡いだ糸だって、即座に魔法と理解するか、わからなくともきっぱりさっぱり諦め、深追いはしなかっただろう。
戦闘好きとかは置いておいて、彼らは、生態系で見れば、更に強い生物の餌だ。
さて、ラグンキャンスに天敵はいるか?
いないだろう。
彼らをボリボリ貪れる大きさは、ドラゴンぐらいしかいない。そして、ドラゴンはそんなによく見かけるものではないらしい。
他に巨大な動物がいれば、ラフェムたちも名前くらい知ってるはずだ。ラグンキャンスを食べる捕食者なんて、危ないから。ても、誰も他の生物の名を出さなかった。
推定、彼らはこの辺りでは頂点。もっとも強い生き物。
敵がいないのなら、油断すると危ないという考えがそもそもないのだ。魂喰らいと同じように。
考える時間を貰えるのは嬉しいが……。
鎌が再び動くのが見えた。
ハグするように水平に腕をクロスさせ、俺を二等分にするつもりだ。
そのラインを飛び越すように、そしてアッパーを食らわせるように、攻防兼ねたとんぼ返りの切り上げを乗り出た顔面にぶち込む。
やはり金属音が鳴って、表面を刃が滑っていく。
だけど顔を殴られたのは衝撃だったみたいで。
虫はその場に立ち尽くし、間合いを取って着地した俺に詰めてこようとしない。
おもむろに、ラグンキャンスは足を開く。
少しばかり下がった重心、要塞のように据わる姿。ただでさえ、転ばすことが出来るかもわからなかったのに、もう足を浮かせることさえ叶わないのではないか? と不安がよぎる。
戦わねばならないことを理解したか。
しゅう、と、空気が力強く抜ける音が奴から聞こえた。
唸り声でなくとも、本気で敵として認識された事を知るには充分だ。
気門がどこにあるかはわからなかったが、呼吸と怒りを知れて、何故だが変な安堵感を覚えた。
そうだな……気門。
見る限り剣をも弾く鋼の体でも、気門周り、そして内部は柔らかいかもしれない。それに、塞いでしまえば、水たまりに落ちたバッタが溺れ死ぬように、洗剤をかけられたゴキブリが窒息するように、硬さや強さを無視して殺せるはずだ。
探してみるか。
でも、ゆっくり観察する時間なんかない。
今は通る攻撃を模索して、殺意に抗って、体力を奪うしかないか。
魔法は滑ってしまうが、剣も弾かれる。
でも、やるしかないから。
剣を持ちながら、ペンを持つ。
持つとは言ったが、正確に言えばグリップを握る指の隙間にペンを挟んだだけであるが。
ラグンキャンスがこちらに走ってくる前に、自ら懐へ飛び込んだ。
文字を綴り、剣を振るう。
量で攻めるぞ。
雨だれ石を穿つと言うだろう。少しでも、ほんの少しずつでも、ダメージになるのなら。
うざったらしく飛び回る俺をはたき落としたがって、白い鎌が無造作に空を裂くが、二個しかないうえ先を読むこともせず、可動域も狭いから余裕で避けられる。
この調子で……。
「うわっ!」
ノーモーションで、砂を蹴り上げてきた!
巨体で動き回れる脚の瞬発力、恐るべし。凄まじい速さで爪の裏をスコップのようにして掬い上げた大量の砂を投げ付けられ、まぶたを閉じるより先に角膜にへばりつく。
この一瞬の隙に、背中を思い切り鎌の側面かでぶん殴られ、俺は地面に落ちる。
「うぐがぐぐああ……! 痛ったああ……」
バリバリとガラスが砕ける音を出し、命の火花が痛みを比喩するように吹き出た。
視界はあっという間に、瞑っているというのに緑っぽい真っ白に染まって。
激痛に、平衡感覚も声も失う。
ふらふらする。だけど、倒れたままのわけにはいかない。拳を支えにして立ち上がる。
後ろで俺の名を叫ぶ声が聞こえた。
大きなものが動く気配と、風を切る音がする。
咄嗟に後ろへ全身全霊を込めて跳べば、砂浜が叩かれた爆音と風圧が身をかすめる。
なんて卑怯なのだ。
だが、同時に思い出す。これは試合ではなく死闘であることを。
餌を得るために正道邪道など関係ない。
これはただの生き延びる為の狩り。目的さえ達成できるのなら、過程は重視されない。
跳ぶのは良かったが、上手く着地できず変に体をぶつけてしまう。
勢いのまま転がる。柔らかい砂のおかげですぐに減衰したけども、起き上がりたくても自分が空を見ているのか、地に伏せているのかわからない。
振りかぶって、数回本を目の前を叩きつける。
砂の場所を掴んだら、それを目印に足の裏を押し付けて、無理やり立つ。
でも、俺、今どうなってる?
どこに居る、どこから来る、何をされる。
知りたくとも、目を開けるどころか、眼球を動かせない。
削れる痛みで勝手に動こうとする眼球を、止めることで精一杯だ。
涙が溢れる。だけど砂を落とすには全然足りない。余計痛みを増やすだけ。痛みが増すから、もっと出る。だけど、まだ足りない。
歯を食いしばる。
はち切れそうな心臓の鼓動に釣られた呼吸が隙間から漏れる。
「う、うぐおおお!」
闇雲に、そして必死に、炎と水、風そして雷の魔法の名を書き殴った。
きっと酷い文字だろう。
だが、発現さえしてくれればいいのだ。俺という存在も、触角に嗅ぎ取られる臭いも、生命の気配も覆い隠す煙幕になれれば。
四方八方で爆ぜる幾多の魔法の音。いつもより威力が弱い気がする。
だけど、それで構わない。
地へ、敵へ、無鉄砲にぶちかます。
近付けないよう押し戻せれば、俺を隠す煙幕になれば、それでいい。
タイミングも距離も何もかもメチャクチャな爆発音。
「……ぷかぷか、みずたま、君のもとへ」
突然、場違いなのんびりとした歌が交わった。
当然、馴染むわけがなく、重低音の中、油のように浮いた歌の源は、詩歌。
同時に、冷たい水が頬を撫でた。
止水が、顔のそばで浮いているようだ。
歌の表現次第で、こんな器用なことが出来るのか。
すぐに目を突っ込んだ。
涙で流すためのまばたきさえも出来なかった、砂利まみれの眼を、やっとこ開く。
鋭利な砂粒が重力に従って目から離れる。
すぐに顔を上げ、染みるわ滲むわぼんやりするわのボロボロの目で、現状を確認した。
驚いた。砂嵐がそこにあった。
水色の風が、白い脚のそばの地面から現れ、砂を山ほど巻き上げて、竜巻のようにぐるぐるとラグンキャンスを中心にして回り続けている。
囚われた虫は、振り払おうと鎌を振っている。
だが、砂の壁をいくら斬ろうとすぐに新たな砂で埋まる。
歩けばその分嵐もくっついてきて、まるで風が吹き荒れる広大な砂漠で迷ったかのようだ。
振り返る。
目的を果たし、歌を切り上げた詩歌と、両腕を前に突っ張らせ、顔を真っ赤にしているルシエの姿があった。
「助かった!」
「よそ見する暇はないわ! 私も戦う。剣を持って!」
彼女が叫ぶと、風が止む。
幼い体と不釣り合いな風を起こすのは、無茶ぶりだった。
ルシエの全身から力が突如抜ける。
腕をだらりと垂らし、ぐったりしてしまった。もう、しばらく動けないだろう。
敵の方へと視線を戻す。
解放され、待ってましたと言わんばかりに飛び込んできた白い六肢の猛劇。
本を鞄へ仕舞って、剣を握り直していなす。
金属がぶつかりあい、擦れる甲高い音。
ジャリン、シャリンと、休むことなく繰り返され、後ろにある海の波を全て上塗りにして隠してしまう。
そんな雑音の中を、心地よい声がすり抜ける。
彼女の新たな歌が始まっていた。
テンポは速く、はじけるベースと激しいドラムの幻聴が聞こえる。まるで、剣と鎌のしのぎ合いとセッションしているようだ。
後ろから、たぎる紅蓮の帯が飛んできて、俺の銀刃に巻き付いた。
剣の宝石が呼応するように赤く染まる。なんだこの機能は? 初めて見るが、今は構ってる暇はない。
さてさて、なるほど。
剣単体では力不足で弾かれ、魔法単体では流線を描くボディを滑っていってしまう。だが、剣と魔法を合わせれば、受け流されない上、二人分の力を合わせた攻撃に出来るということか。
諦めの悪いラグンキャンスは、未だに俺の皮を剥ごうと、タップダンスを踊るように次々と鋭い爪を振るい続ける。
バランスもあるのだろう、どうやら、体を支えている後ろの四足は、同時に二本以上地から離せないようだ。つまり、最大でも、鎌の腕と、後ろ足いずれか一本の、合わせて三本しか迫ってこない。
あまりに単調なラッシュを見切るのは簡単だ。
時折砂かけが混ざるが、もうその手は通用しない。
後ろ足の一本に狙いを定めた。
順番通りに、足が迫る。
本を持つ手も剣に添え、砂につま先が埋もれるぐらい踏み込んだ。
ホームランで打ち返すつもりで、爪と脚の狭間である関節めがけて、思い切り振るう。
バキンと、金属を殴る音は折れた音に変わり、同時に命が吹き出す音がした。光と共に、緑色の体液が飛び出た。
きゅう、と引き攣った呼吸の音。
効いたんだ。ラグンキャンスが出していた、そして振るおうとしていた腕を全部引っ込めて、後ずさった。
この機を逃すか。
砂を蹴り、白の巨体に近付いた。
「食らいな!」
今度は俺の番だ。六肢の関節を狙って、武器を振るう。
動揺する虫は、斬られるたびによろめき、サンドバッグのように固まっている。
さっきの攻撃は相手の力も加わっていたのもあって、血が噴き出るほどの威力はでないが、命の光が漏れる。ダメージは確実に与えられている。
しかしいつまでも黙って受けてくれるわけはない。次第に怯まなくなってきた。
反撃の気配を察知し、振りかぶろうとした鎌の甲に、飛び乗るように、そして壁のように蹴る。虫の力も合わさり、弾丸のように低空を吹っ飛び、間合いを取る。
さあ、結構体力は削れたか?
……うーん。怪我した部位を庇うといったことはせず、出血もわずか。
これは骨が折れるな……。
ちょっと面倒くさいかも……と思っていると。
ポンと、肩に手を乗せられる。
しまった、安全のために離れてもらった詩歌の近くに来てしまったのか。
「詩歌、すまない、すぐに離れ……」
いや、おかしい。後ろに立つ気配は、俺よりも背が高い。詩歌と俺は、同じぐらいの身長なのに。詩歌じゃない。
背が高いということは、ラフェムでもない、攫われた子どもたちでもない。
「誰……?」
振り向くと、そこには知らない女の人がいた。
詩歌はもう少し離れたとこにいて、俺と同じように突然の来訪者に驚いている。
いや。この人知っているかも。
どこかで会っただろうか? クリームのような優しい黄色の髪と瞳、オレンジ色のラインの入った魔法白外套。
そうだ、この町で泊まった宿の女の子。ミルーレ……に似てるけど、別人だ。
髪は彼女より短いし、それに背が高いし、歳も俺たちより五年か二年か離れている。彼女は……。
「はじめまして。詳しいことは皆を助けてからにしましょう」
ラグンキャンスが走り出す。
結構遠くにいると思ってた巨体は一瞬で加速し、あっという間に目前へ。まるで車を見ているようだ。
彼女は、真剣な眼差しを俺から虫へ移す。コートの内側に手を入れると、質素な短剣を取り出した。
ラグンキャンスと同じ白色のククリナイフ。装飾はなく、代わりに使い古した印の無数の傷がついていた。
彼女は二歩踏み出し、構えた。
途端、ナイフの刃部分が光に覆われる。
俺が炎を纏ったように、彼女自身の魔法を短剣に宿したのだろう。
バチンと火花を散らして、互いの武器が反発する。
虫はワンパターンを反省したか、攻撃する足の順番をあべこべにし、フェイントと砂かけを不規則に混ぜている。しかし、彼女の方も短剣の小回りを活かした身のこなしで凌いでいる。
彼女は爪の付け根を、ラグンキャンスは武器の届かない部位を互いに狙って、拮抗している。
今なら、強烈な一撃をお見舞いできるかも。
詩歌も同じことを考えている。歌に心が更にこもって情熱的になり、剣に渦を巻いていた炎は、より熱く、圧縮されまるで赤い宝石でつくられた刀身へと変わる。
斜め後ろへ回り込んだ。
だが、渾身の一撃は、振り向きもされず、待機中だった足の爪のカーブにハメるように受け止められた。あれほど大きな目には、死角など存在しないのかもしれない。
ならば……。
武器を大地に押さえつけられる前に引き抜いて、今度は彼女と俺への対処に使ったが為に、確実に動かせられない状態の爪を狙った。
命の音はしない。
くちばしのような長い口で止められていた。
複眼の奥の、深い深い無数の溝が俺を睨んでいる。
一瞬。見竦められてしまった。
体が咄嗟に動かなかった。
やばいという自覚と共に、俺は吹き飛んだ……ただ、痛くなかった。
彼女が、こわばる俺に抱き着くように飛び込んで、キックから守ってくれたから。
彼女は俺の後頭部に腕を持ってきてくれていた。
頭を地面にぶつけないように。刹那の行動でそこまで考えてくれていた。
砂を滑る。
勢いで押し付けられたやわらかな肌の温かさに、ちょっとばかし心を変に揺さぶられると共に、彼女を傷つけてしまったのではないか、余計なことをしてしまったと罪悪感が胸を覆う。
彼女は立ち上がると同時に、追撃を試みて追ってきていたラグンキャンスの両鎌を回転切りで弾き飛ばす。
そして、空いている手のひらを突き出すと、握れる程度の大きさの球が発射される。それは、三角の顔のど真ん中でパンと弾けた。
閃光だ。ラグンキャンスは目が眩んだようで首を歪曲させて固まった。
「あ、ありがとうございます……すみません」
「礼なんかいいわ。あなたを守るためにわたしはここへ来たんですもの。あなたも、町の人も護るのが、わたし達の役目。……さあ、悪いけれど、ラグンキャンスには死んでもらいましょう」
……心強い。
確かに抱いていた漠然とした不安の影に光がさすのをじんわりと感じた。




