#55 遷移と不変
煌めく青い海、かつて竜とぶつかり合った黒い岩窟の崖、息を吹き返しつつある、果物を実らせる木々の森……。
あっという間に飛び越えて、ビリジワンへと戻ってきた。
街の入り口前にドラゴンは着地すると、俺たちが降りやすいように伏せの体勢になる。
……やはり、傷や戦闘の影響はまだ体に響いているようだ。
平然を振る舞おうとはしているが、不規則な呼吸、汗で湿る体……疲労が目に見えていた。
「すまない、ドラゴン。無茶を強いてしまって……まだ治っていないのに」
皆が荷物を降ろしている最中。
お詫びといっちゃあ何だが、見舞いに貰ったフルーツで大きめのものを三つほど取り出し、彼の口元に掲げた。これで、少しでも喉を潤して貰えれば……と思ったのだ。
彼は首を伸ばせるだけ伸ばして顔を近付けると、そっと口を開いて舌を出した。乗せろということだろう。
乗っけてやると、舌はベルトコンベアみたいにするすると口の中へと引っ込んでいった。そして、さながら象や亀のように、顎を上下に動かし、果物を粗く粉砕し、一気に飲み込んだ。
お気に召したのだろう。嚥下の音が過ぎると、幸せそうにぺろりと舌なめずり。
甘い果汁を堪能した彼は、また腕にぐりぐりをかました。
…………皆、荷物を降ろしきったようだ。
三人が、俺の側へとやってきて、口々にドラゴンへの感謝の気持ちを言葉にする。
竜はすました顔をして、何もない右上の虚空を眺めるが、かすかに上がった口角や薄桃に染まった頬を誤魔化せてはいなかった。
さあ、帰るか。
一番左にクア、一番右に詩歌。ラフェムはクアと俺に挟まれる形の、ゆるい一列になる。
怪我人に裸足で歩かせるなんてなんて酷い話だが……怪我をしているのだから、おぶってあげるというクアを重いから駄目だと拒んだ。じゃあ俺がおんぶするよと言えば、歩くことぐらい出来るとまたまた拒まれた。
彼は意地っ張りだ、一度決めると簡単には折れてくれない。不可抗力で、歩かせることにしたのだ。
「本当にありがとな。ゆっくり休んでくれよな」
「…………」
彼に別れの挨拶をして、ビリジワンに向かって一歩進んだ。
……何故か、足音が一つ多く聞こえた。しかも、その音は、俺の何倍も大きい。
「……?」
「…………」
ドラゴンの前足が一足分、街の方へと動いている……。
躊躇わずもう何歩か進んでみると、ドラゴンも同じ距離だけ同じ方向に進んでいた。
「…………もしかして、一緒に来たいのか?」
ピス、と鼻を鳴らす。
「だってさ、ラフェム」
「来たいのか……まあ、運んでくれた礼もあるしな。おいで」
ラフェムは腰を捻って後ろを向き、手をパタパタするジェスチャーで竜を呼ぶ。
竜は、またたくまに破顔すると、尻尾を車のワイパーのように大きく左右に振りながら、俺たちのすぐ後ろまで寄ってきた。
そして、ラフェムの指先にコツンと鼻の頭を当てる。きちんと傷口を避け、なおかつ優しく。
おそらく今の動作は、感謝の言葉の代わりだろう。
「……ドラゴンって、案外愛嬌あるんだな……」
ラフェムが、バツの悪そうな小声で、俺に耳打ちする。
俺も、天涯孤独で孤高のイメージがあるドラゴンが、こんな愛らしくて驚いたけど……ラフェムは全て邪悪な者だと偏見を持っていたから、俺の何倍も驚いているし、だからこそ偏狭な殺意を向けてしまったことの罪悪も抱いているのだろう……。
でも、あの魂喰龍が、ラフェムの両親を屠り、良心も葬ったような奴を、ドラゴンの種族として一番最初に知ってしまったのなら、憎悪と不信を募らせてしまうのも当然だと思う……。
「そうだな」と軽い相槌だけを返し、俺は再び前を向いた。
ラフェムが歩くスピードの基準だ。彼を急かさぬよう、ゆっくり亀のように進んでいく。
アーチ看板をくぐれば、足元が草原の剥げた獣道から、暖色のレンガになる。
……街の雰囲気に違和感を覚えた。
その不穏を産み出している正体は、すぐにわかった
…………人がいない。
いつもあんなに人が溢れていた大通りは、まるでゴーストタウンのように閑散としていた。
まだ昼だ、いつもなら道路が人の海で埋め尽くされて賑わっている筈なのに。見慣れぬ光景は、とても異様で不気味だった。
何かあったのだろうか? クアに聞いてみると、彼女は気不味そうに顔を逸らし、恐る恐る目だけこちらに向け直すと、呟くように答える。
「人食いの龍が復活したって聞いて、家に籠もってしまったわ……。この街は、ドラゴンを恐れて逃げてきた人も多いから……。しばらくは寂しい街になるわね……」
傷が痛いようで気怠げな猫背でよたよた歩いていたラフェムの背が、ドラゴンという単語に反応して伸ばされる。
彼は無言で、クアの方を見る。
どんな顔をしているのかは、見えないからわからないが、肩を落としているから、悲しそうな顔をしているのだろう。
彼女は慌てて、次の言葉を紡ぎ出す。
「で、でもまたすぐ元通りになるはずよ……心配しなくて大丈夫。今は、怪我を癒やすのに専念して……ね?」
ラフェムに恋する乙女だ、この状況を目の当たりにした彼がどう思うかなんて手に取るようにわかるだろう。俺にもわかるぐらいなのだから。
「倒せなかった僕のせいだ」とか、「皆の為にドラゴンを倒しに行く」とか言い出すに違いない。彼はちょっと、自分を責めすぎる癖がある。
だから、彼女は先手を取って、自身の怪我へと注意を逸らそうとした。
「……ああ…………そうだな……まずは怪我だな」
ラフェムはゆっくりと彼女から目を離し、またさっきの体勢に戻った。
真剣な横顔。
伏せられた目線は、傷まみれの四肢に向けられている。
……今は素直に怪我だけを考えてくれるらしい。
「ラフェムちゃん!」
「ラフェーーム!」
突然、ぼやけた大声と、忙しい足音が二つ、道の先から聞こえてきた。
その方角を見ると、大きな人影が二つ、こちらに向かって全力疾走していた。
エイポンとネルトだ。
エイポンはますます加速し、並んで走っていたネルトを引き離し、あっと言う間に目の前までやってきた。
その勢いのままラフェムを抱きしめようと両手を広げ──傷まみれの姿を見て、燕返しで進路を変え、左側にあった外灯の柱に抱きついた。
何やってんだと、ラフェムは恥ずかしそうに左手で顔を隠して苦笑い。
養子の無事……では全くないが、生きているのを直に確かめた彼女は、野太い声で泣き出してしまった。
ずっと心配だったんだろう。
想い人を文字通り帰らぬ人にした憎き龍が、今度はその想い人から授かった息子を襲ったのだ。
事前にどの程度知らされていたかはわからないが、たとえ生存していると連絡されても、気が気でないのは当然だ。
やっと追いついたネルトは、ラフェムの顔を見る前から既に泣いていた。
固い握り拳を作り、その手の甲で目を抉るような勢いで擦り続けている。肩を上下に痙攣するように震わせ、獣のようにうーうーと低い声で唸っている。
「うおおお……ラフェム……よかった……」
「ふん、何泣いてるんだよ。僕のこと殺すとか言ってた癖によ〜?」
「それはもう昔の話だろおおお……ラフェムまでいなくなったら、オレどうしようかと……」
ネルトは顔をあげ、帰還した俺たちをぐしゃぐしゃの顔で見回し始めた。
貰い泣きし、俯いて目を擦るクアを見て、そして腕を組んで感動の再会を見守っていた俺を見て、お前らも無事でよかったと微笑んだ。
そして俺の横で、見知らぬ人間の登場に戸惑い縮こまっていた詩歌に目をやり、不思議そうな顔をしながらラフェムの方に視線を戻した後……驚いて飛び上がりながら、二度見する。
「またお前連れてきたのかよ!?」
「また? ど、どういう……?」
彼は相当の人間不信だ。自分が知らない人間を見ただけで、こんなに顔を歪ませ、声を張り上げるなんて。一週間ほど前にも俺に関して言い争っていたが、ちょっと過敏すぎないか?
嫌なものを見る目で、避けるようなポーズ。
まるでいじめっ子の側にターゲットが寄ってきた時宛らの辛辣な反応をされては、詩歌が傷付いてしまう。
やっぱり来ないほうがよかったんだ、なんて思わせてしまったら可哀想だ。
彼女はまだ地球に虐げられて心が荒んだままなのに、そんなことを抱かせてしまったらもう二度と、彼女の歪んだ心は戻らない気がする……。
「彼女はシーカ、死に際にいた俺たちを助けてくれた恩人だ。だから、知らない人だからって誰これ疑うのはやめてくださいよ……」
だから咄嗟に、彼女を庇護する言葉を発した。
弁解でもしようと思ったのだろうか?
困惑顔のネルトの口元が震えるが、彼より先にラフェムが口を開く。
「ネルト、僕の恩人に対して失礼だぞ。それとも、また絶交するつもりで言ってるのか?」
「いや、オレはそんな…………ぐぅ、ともかく嬢さん、すまなかった。いきなり変な態度取っちまって」
腑に落ちんと、金髪をぐちゃぐちゃにするような乱暴さで後頭部を掻きつつも、彼はペコリと首をもたげ、謝罪した。
頑固な人だ。
まあ、初めて会ったときは互いに譲らず大喧嘩になったぐらいだから、反発しなかったって事は、俺の件で少し成長してくれたのかな……。
謝られたが、彼女はまだ不安げだ。
体は緊張で固く、落ち着きなく視線と体を動かし、指を腹の辺りで何度も組み直している。
素っ気なく謝られても、そりゃあ簡単に心は晴れないだろう。
彼女を慰められるのは、一番彼女の事を知っていて、同じ経験をした事もある俺だけだ。
そっと、彼女の耳に口を近付けた。
「怖がらせて悪いな。彼、どうにも面識の無い人間を警戒してるみたいで……俺も初めて会ったときは、同じように辛く当たられて……君が悪いわけじゃないから、どうか気にしないで」
風に吹かれれば消えるぐらいの幽かな囁き声で、彼女に伝えると、同じぐらいの辛うじて聞き取れるほどの声量で呟いた。
「……私は、本当にここにいていいの?」
「勿論だよ」
彼女は安堵したのか、ゆっくりと息を吐くと、俺の方に傾けていた体を元に戻した。
「……ありがと。少し、落ち着いたかも」
その言葉は、偽りではないようだ。
さっきの青褪めた怯えの表情は、血色のいい薄桃の、はにかんだ微笑みに変わっていた。
体も自然な感じで、強張っていた筋肉もほぐれたようだ。
よかった。
ラフェムが、突然わざとらしく咳払いをする。
なんだろうとそっちを見ると、彼は困ったように足の裏を見せた。
体の隅々まで走る赤い亀裂は、例外なく足の裏にも及んでいる。
その傷に細かな砂や煉瓦の欠片が食い込んでいて、見るからに痛そう。ぞわっときた。
「……この通り足が痛いんで、そろそろ家に向かおうと思うんだけど。エイポンとネルトも来なよ。座ってさ、ゆっくりと話しようよ」
「うん! 聞きたいことも話したいことも沢山あるし、一緒に行くわ!!」
まだ蝉のように外灯を抱きしめ泣いていたエイポンが、全ての文字に濁点を付けたかのようなガラガラ声で答えた。ネルトも黙って頷く。
「じゃあ、出発しよう」
彼の声を合図にやっと蝉を卒業した彼女は、一番近いクアの隣ではなく中央へと向かっていき……さも赤子をあやすように優しく且つ素早くラフェムを持ち上げ、抱えた。
「っわ! エイポン! 何するんだ!」
「何って誰が見てもだっこじゃない! そんな足じゃ歩くの辛いでしょ、さあ行くわよ〜!」
強がっておんぶを拒否したラフェムが、だっこなど許すわけがない。……しかし、暴れることは封じられているし、そんなプライドのために傷を省みず動くなんて、逆に阿呆らしいだろう。
それに、血は繋がってはなくとも二人は親子だ。
ラフェムが強がりなことをエイポンは知っている。ラフェムも、への字に口を曲げて沈黙してしまったことから、なんと言おうが降ろしてくれないことを理解しているようだ。
俺たちは、フレイマーの家へ向かって歩き出す。
涙で濡れた笑顔で、雄姿と無事を讃えるエイポン。ふくれてはいるが、自分が纏った炎の熱さを、エイポンの前だからか、卑屈ではなく得意気に語るラフェム。二人のやり取りに微笑むクアに、涙脆いのかまた男泣きするネルト。
俺たちが離れる前は、いつだって賑わっていた街は、天地がひっくり返ってしまったかのように静かで冷たい姿になってしまったけれど、その街で待っていた彼女らは相変わらず温かかった。
故郷に帰るって、こんな気持ちなんだな、まだ一週間ほどしか生きてないないこの星だけれども。
変貌の寂しさと、不変の嬉しさが入り交じる不思議な感覚を胸に秘め、帰るべき場所へと進み続けた。




