#46 化け物に抗う勇気
龍はラフェムの欠点を見破っていた。
彼は木を巻き込まぬよう避けて、炎を張っていたのだ。
彼にとって、木は障害物ではない、生き物だ。
龍にとって、木は生き物ではない、障害物だ。
龍は、少年の想いを躙るように、木々を足場として踏みつけて、炎の海と目眩ましの弾幕を避けながら、鬼ごっこの鬼のように、ニヤけたまま足音響かせ追ってくる。
倒れた木々に殴られた炎下の海は、車に轢かれた水溜りのように巨大な水飛沫をあげ、ラフェムの火へと降り注ぎ、焼ける音を発しながらまたたくまに蒸発する。
横たわった木は、枯死部分が炎海で引火。そして燃料を得て強まった炎に這われ、無残な火だるまに例外無く変わっていった。
「……クソッ、ならば!」
炎の塔が、海から幾つも無造作に突き出しては絡み合い、龍の進路を妨害し始めた。
だが、奴はまるで藪を掻き分けるように、片腕で煉獄の塔を何本も纏めてへし折っては進み続ける。
ベールのように薄く伸ばした炎を重ねて視界を遮ったり、渾身の力を込めた盾のような焔壁を発動したり、あの手この手でラフェムは龍を妨害しようと試みるものの、どれも簡単に払われてしまう。まるで、熱さを暑さ程度にしか感じていないように。
海、風、粉、塔……どの炎も、結局足止めの何の役にも立たなかった。
「あーー生ぬるい! 引っ張り出したばかりの臓腑ぐらい生ぬるいなぁ! オレが真の炎ってのを見せてやろう!!」
龍の笑いが、炎の唸りの中だというのに、真横で耳打ちされたかのようにはっきりと聞き取れた。
「不味い!!」
突如ラフェムは、俺の脇腹にタックルするようにして、進路を無理矢理変更させた。
不意の力に俺は突き飛ばされて、大きく横へ吹っ飛んだ後、水の中に滑るように転んだ。
その俺の上空を、ラフェムは吹き飛んでいく。
瞬きする間もなく、先程まで俺たちが走っていた空間を、赤いビームのような濃縮された炎が貫き、そして消えた。友は、回避に間に合わなかった。
俺は咄嗟に立ち上がり、彼を追った。
だが、流石はラフェム。
炎がジェットパックのように四肢から噴射すると、彼はぐるぐると宙を踊るように回転し、体勢を整え、木の葉が集う部分へと突っ込んでいった。そして、スルスルと幹を伝って降りてきた。
「ありがとう、大丈夫か」
「風に吹き飛ばされただけだ、何ら問題ない。……だけど……」
先程まで自身のいた場所を振り返る。
熱線が過ぎた跡。
ラフェムの魔法よりも何倍もの大きさと強さを誇る炎に包まれて、既に影のような黒炭と化した木が、虚しく崩れ落ちていた。
何本も、何十本も、同じように焼かれた木々が、一直線に、見える限りどこまでも続く。先ほどまで木だったものが、ボロボロと崩壊し、炎を纏ったまま海へと落ちて白い煙をあげる。水蒸気の白と煙の黒が空へと登り、煤は舞い、焼ける臭いと潮の臭いが立ち込める様子は、さながら地獄。
「ハハハハハッ! 見たかぁ? これこそが炎だよ!」
黒き龍は、焼き払った跡を見回して、悦に入ってふんぞり返る。
その様子はまるで、おもちゃの城を崩したガキ大将のようだった。
もしも直撃していたら、人という俺たちの命が失われたということにも、罪なき木々を自己顕示のために容易く殺したことにも、なんら躊躇いも罪悪も持っていない。
奴にとって、これは遊びに過ぎないのだろう。目の前に佇むかけ離れた感覚が、とてつもなく不気味だった。
ラフェムは、立ち尽くしたまま目に炎の揺らぎを宿し、顔にありったけの嫌悪を浮かべてドラゴンを睨み、黙っていた。
そして「雑魚が傲るなよ」とドラゴンに煽るように嗤われて、ますます目の奥が赤く燃えた。
獲物に悟られぬように歩むライオンのようにゆっくりと、翼の腕を大地につけ四足歩行で龍はこちらに寄ってくる。
走り出そう。そう思って、固まるラフェムの袖を引っ張ったが彼はびくとも動かない。
ヤバイ光線を撃たれ、平和だった森が焼かれ、今にも殺されそうになっているなんて、信じられない現実だが、それに呆然としてる場合じゃあないのだ。グイグイと退路へ進ませようと引っ張るが、やはり動かない。俺はようやく気付く、意思を持って彼は留まっていたのだ。
ラフェムは、ゆっくりと振り向く。
そして、小さな声で言った。
「ショーセ。……龍と闘うぞ」
耳を疑った。
今の火炎放射を見て、俺達如きが抗えると本気で考えたのか?
「なにを言い出すんだ、あんな奴に勝てるわけが」
「勿論勝とうだなんて思ってない、助けが来るまで凌ぐんだ。この煙を見れば、ラスリィの人たちは非常事態にきっと気付いてくれる……」
ラフェムは、かすかに震えていた。
戦うとは口にしたものの、絶望的な実力差に慄いていたのだ。
「こんな常識外れな力を操れるなんて……。僕が聞いていたより、はるかに威力がおかしい……こんなの、森を出たところで、……ラスリィを焼かれるだけだ」
「…………」
その通りだ、俺はそう思った。
……だけど、声が出なかった。
あの強いラフェムが怯える、そのぐらい奴の力は異常なのだ。
そんな化け物が、難なく手を掛けられる目と鼻の先で、蔑むように笑っている。こんなの恐怖以外の何物でもないじゃないか。
想像を絶する才と、理解できぬ感性を持つことを明確に知ってしまった今、息をすることさえ苦しくてままならなかった。
そんな哀れな俺を見て、彼は哀しげに笑った。
「怖いか? ……怖いよな……仕方ないさ…………」
「なぁなぁなぁ! なにボソボソ言いながら突っ立ってるのぉ? つまんねえなぁ!」
慰める少年、茶々を入れる龍。
ラフェムは、突然俺を強く抱き締めた。
身の内に燻る炎の熱が、胸に、背に、全身に、服越しにじんわりと伝わってくる。
彼は、俺とラフェムの二人以外、何者にも聞こえぬよう小さく呟くように言った。
「君は逃げても構わないぞ」
優しくて、それでいて残酷な声。
自分の耳は本当に壊れたんじゃあないかと疑った。
想像してなかったことは何遍言われても、すぐに飲み込めないものだ。
思わず「なんだって……?」と聞き返す。
彼は、一層腕の力を強めた。
「逃げてくれと言ったんだ……。怯えている君に、結末の見え透いた争いを強いたくない……。大丈夫、行方を眩ませる時間ぐらい、僕が稼ぐさ。……もしラスリィの人に出会ったら、ちゃんと伝えてくれよ」
殺されたままの声なのに、その小さな音には、先程よりも重い想いが込められていた。
悲哀とも、哀憫とも、自傷にも感じられる寂しい声。
先ほど聞き取った言葉は、空耳ではなかったことを再確認した。
「…………さよなら。僕を日の下に連れ出してくれて、ありがとう」
彼は激励するよう俺の背をバチンと叩くと、拘束を解き背を向けた。そして一歩踏み出し、余裕のしたり顔で待っていた龍と面向かう。
純白の外衣に刷られた赤い紋章が、燃え上がるように輝いた。
彼は本気だ。
本気で、一人でどうにかするという自己犠牲の決意を抱いて、いつもの猫背をまっすぐにして、立っていた。
「お、赤い奴。食べてくださいってかぁ? 物分りの良いやつだなぁ!」
「僕と戦え、人食いの龍よ」
「えっ!? 戦えぇえ!? おいおーい、笑わせるなよ! 逃げると抗うの順序間違えてねえか!? 一瞬明晰だと思ったオレが馬鹿みたいじゃあないかよぉ!」
挑発だろうか、それとも本心からの発言なのだろうか。
龍は傑作だと言わんばかりに爆笑するが、ラフェムは反応せず、不動を貫き黙り続けていた。
二人の間に、ピリピリと張り詰めた空気が流れている。そんな中、その輪から仲間外れにされている俺は、恐怖に凍りついたまま必死に考えていた。
……彼の提案は善意に間違いない。ラフェムは、俺が絶望に塗れたまま死ぬくらいなら、いっそのこと逃げてほしいと思って言ったんだ。
でも、俺は本当に言葉に甘んじて選択して、幸せになるのだろうか、後悔しないのだろうか……。
もちろん死ぬのは怖いさ。トラックに轢かれて死んだ時は気付かなかったけど……。
でも…………。
……俺は、ようやく一歩を踏み出した。
退路ではなく、ラフェムの方へ向かって。
……はは、俺、とんだ嘘つきだ。
震える足でゆっくりと歩みながら、ラフェムの家に初めて呼ばれた日の事を思い出していた。
「力さえ、対抗する力さえあるのならば、この星の為に全力で戦いますよ」なんて、思い出すだけで大地に躊躇わず横たわって胸を掻き毟りたくなるほど恥ずかしいセリフを、ドア越しに吐いた夜。
あれは、真っ赤な嘘だった。
ああ、ラフェムに二つも嘘をついてしまったな。
自分は記憶喪失の旅人だということに加えて、力が無ければしっぽを巻いて逃げ出してしまうということを。
でも、この今嘘だと証明されてしまった嘘に、罪悪感は抱かなかったし、むしろ誇りにさえ思えた。
勝手に震えていた足や手は、友の元へと近付く度に落ち着いていく。
つられて、動悸もパニックも鳴りを潜めて、身体は平常へと戻っていく。
……きっと俺にとって、自分の命を脅かす存在は、唯一の友を見捨てるという行為よりも、怖くなかったんだろう。
抜け落ちた心の隙間を埋めるように、彼と共に闘おうとする意志が、無限の勇気が、奥の底から湧き出てきた。
逃げろと伝えたのに、のこのこやってきたからか驚かれたが、そんなことは気にせず横へ並ぶ。鞘に収めていた剣を勢いよく引っ張り出し、龍に突き付けた。
「俺は逃げたりなどしない。退ける力が無くとも、君を……友達を、見捨てる事などしない!」
「ショーセ……」
「……俺も戦うよ、ラフェム。俺たち……友だち、だろ?」
彼は、困惑の色は残しつつも、嬉しそうに顔の強張りを和らげた。
「あああ? 馬鹿が増えたよ! 逃げずに戦うだってぇ!? 友だち!? アハハハハ!!」
龍は仰け反る。翼を広げ、鋼の尻尾を乱暴に左右に振り回し、下品に笑う。
そして煙のような頭髪が、不思議な色からどす黒い血みどろ色へと一瞬で変化すると、彼は笑声を止め、ゆっくりと顔を元の位置へと戻した。
もう、目も笑っていない。
「雑魚共はいつも愛だの友情だの……面倒くせえんだよ、死ね」
真顔でそう吐き捨てて、胸のクリスタルを橙色に発光させると、宙に構えていた翼を、前面で腕をクロスさせるように大きく振るった。
巻き起こった強風に、細く鋭い、光の針のようなものが何本も入り混っている。
それを知覚した瞬間、すぐさま炎の防護壁が足元から空へ登る滝ように噴き出してきて、俺たちを針の雨に晒されぬよう護る。
嵐はすぐに過ぎ去った。ラフェムは展開していた炎を、中央へと収束させボーリングの球程の大きさに圧縮すると、すぐさま龍への応酬として放つ。
喰らえば普通ならただでは済まなそうな豪速球は、当然のように呆気なく弾かれた。
「今の針は光魔法か……」
「ああ、凄えだろ? オレはあんたらみたいな雑魚共とは違って、全魔法が使えるのさ! 雑魚に出来ることは全てオレの劣化に過ぎない、そしてオレに出来ることは雑魚には出来ないのさぁ!」
高らかに言いのけると、長い首を縦に張り、息を吸い始めた。
大きく開かれた口に、周囲の空気が、火の粉や煤諸共吸い込まれていく。埋め込まれた宝石が、ゲージやメーターのように、下から赤く染まっていく。
誰が見ても、あれは炎のブレスとかビームの予備動作だ。
ラフェムは、肺に空気を詰め続ける龍の懐へと駆け出した。俺もすぐ、その後を追った。
「なあ、ラフェム……」
「なんだ?」
「死ぬなよ」
「……君こそ。応援が来るまでの辛抱だからな」




