#45 流星より絶望の幕開けを
一面にマングローブが鬱蒼と生える干潟。
もう潮が満ち始めていて、足首まで水の中に浸かってしまう。
だが前を行く少年は、靴が水浸しになろうと、水が進む足を引っ張ろうとも、気にも止めない。
まるで憑かれたように突き進む彼の異様さが、少しだけ気味悪く思えて、一体何の為にそんな死ぬ物狂いで追うのかと問おうとした。
その時だった。
水の中、横たわる人間を見つけたのは。
俺達と同じ、白いマジックローブに身を包んだ黒い髪の女性が、眠るように、仰向けに倒れている。
少しでも違う体勢だったのならば、彼女は溺れ死んでいただろう。
ラフェムは、そんな危険な状態の彼女を見て、足が竦んだかのように立ち止まってしまった。
「だ、大丈夫か!?」
だから、俺が彼女の側へと駆け寄った。
何度か声をかけてみるが、反応がない。息はゆっくりだけども確かにしているから、生きてはいるはずなのだが……。
取り敢えず彼女を水から引き上げ、近くのマングローブの、箒みたいな根っこに寄りかからせた。
歳は、俺たちと変わらない程度だ。
切り口が肩の辺りで綺麗に揃えられたおかっぱ。俺と同じように、毛先に向かうにつれ色は黒から青へと変わって、綺麗なグラデーションを呈する。
右のサイドテールは、短くとも大きい。まるで、八分音符を模した髪型だ。
……髪を結う長いリボンは、五線譜の柄だから、恐らくそういう意図なのだろう。
手のひらには、謎の白い棒が握られていた。蝸牛のようなぐるぐるとした形の持ち手を、彼女は無意識でありながらも、落とさぬ様しっかりと握り締めている。魔法使いが振るうような杖だ。
一体ここで何があったのだろうか。野生動物に襲われたのだろうか。
でも、それだとしたら体が綺麗すぎる。傷も汚れも一つもないのだから。
では、持病で倒れたのだろうか?
でも、顔色は全く悪くない。むしろ健康そうだ。そもそも急に倒れる危険性があるのに倒れたら即お陀仏であるここを一人で歩くだろうか。というか、服が普通の場所のだ。靴も履いてるし、服は俺たちと同じ型。少なくともラスリィの人間ではなさそうだ。
頭の中を疑問符が埋め尽くす。
彼女はなぜマングローブ林を訪れて、そして気絶しているのだろうか。
「ショーセ、あまりそいつの近くにいるな」
珍しく冷たいセリフが、彼の口から発された。
「何でだ? 倒れている人間を助けるなと言っているようなものじゃないか、いつもの君なら絶対に言わないことだ! 本当に変だよ、どうしたんだ?」
「……前にも言ったはずだ、流れ星を信じてはいけない……。流れ星の落ちた先に倒れている人間だぞ、流星そのものに違いない」
明らかにラフェムは恐れている、眠る少女の存在を。
映画の主人公が古代文明の遺跡に眠る機械兵を前にしたかのように、微動だにせず、じっと敵を見る目で無防備な彼女を睨んでいる。口角を強張らせ、いつでも戦えるようにか姿勢は固い。
「なにをするかわからないぞ、早く離れるんだ!」
「はは、流れ星が人間だなんて馬鹿らしい、そんなわけ」
「う、うう……」
おちゃらけて、ラフェムの緊張を和らげようとしていたところを、彼女の呻きが遮った。
閉ざされたいたまぶたがゆっくりと上がっていく。
海のように深く青い瞳が現れて、俺たちの姿を捉える。
「だ、れ……? あれ、なんか、体がびしょびしょ……」
「俺はショーセ。君はこの浅瀬で倒れてたんだ。君の名前は?」
「私は…………ッ! な、なにあの化物は!?」
彼女は叫ぶ。
朦朧としていたというのに、突然覚醒し立ち上がると、俺たちの後ろの空を指差した。
俺たちは、振り向き空を見上げた。
黒い、巨大な何かが羽ばたいている。先日戦ったアイスドラゴンと変わらぬ大きさの、蝙蝠のような何か。
羽ばたく音も、気配も、どれも気付かなかった、何も感じなかったのだ。まるで、急にこの場で現れたかのようなその存在に、恐怖心が湧き上がる。
「おやおやおやぁ? オレがいるの、バレちゃったぁ?」
その巨大で不気味な体には到底似合わぬ、剽軽な声が上空から轟いた。
化け物と叫ばれた黒い生き物は、翼を動かすのをやめると、重力に身を任せ落ちるように、俺たちの前へと着陸した。
生えていたマングローブは鷹のような足に無情にも踏み潰された。
これこそ隕石がすぐそこに落ちたかのような凄まじい地揺れに体勢を崩され、そこを狙ったかのように風圧とそれに乗った木の破片が俺たちを襲う。
「なーんかピカピカして面白ろそうなもんがあったから追ってみれば、餌が集まってくれてるだなんてなぁ」
平然と俺たちを餌扱いする、全身が黒いマットな鱗に覆われたドラゴン。
蝙蝠のような翼腕を持ち、鈍く輝く鋼の鱗がびっしりと針山のように生え揃った、手のような尻尾。
頭部には、煙のような頭髪がたなびいている。皮膚が伸びたかのような二本の角を携えて、その根本の下には光る血のように真っ赤な目があり、俺たちを品定めするように眺めている。
胸には何色とも呼べぬ混沌を宿した、艷やかなハート型の宝石が、大小二つ並んで埋め込まれている。
腹と翼の皮膜の色は、ゾンビのような浅黒い紫だ。
尻尾の鱗を、俺は知っている。
この姿を、俺は知っている。
こいつは、こいつは!!
「やはり、生きていたのか」
押し殺した声で、ラフェムが言う。
喉にまで来ている、穢い罵倒と追及を封じるべく食い縛られた歯。獲物を屠る獣の目。深い皺の作り出された眉間。風のない森の中で、一人嵐の中に立たされているかのように、心身から溢れる焔の熱に煽られたなびく髪。
既に、今にでも飛びかかり葬り去ってやると言わんばかりの殺意と憎悪が、目に、顔に、溢れる火の粉に現れている。
こいつが、人食いの龍。
氷の竜の声を奪い、膿み痛み苦しむような生き地獄を意図的に与えた狂気。
その名を与えられる程に、命を貪ったドラゴン。
ラフェムの両親が暴虐を止めると決意し、そして行方を晦ますこととなった元凶。
ドラゴンは、ラフェムの内に燃える激昂を鼻で笑った。彼の心の底から湧き出る殺意を、貧弱な羽虫に威嚇された程度にしか捉えずに。
「気付かれぬ内に足の筋でも斬り付けて一網打尽にしたかったが、バレてしまったのならしょうがないねぇ。しっかし、そこの黒髪の二人は余計な部分が無くて旨そうだなぁ」
ベロリと下品に舌なめずりをしながら、ゆっくりとこちらに歩み出す。
生きている木が、なんの感情も持たれる事はなく、ただの障害物としてへし折られていく。まだ水の通っている幹が、めきめきめきと悲しみの軋みをあげながら、薙ぎ倒される。
……こいつは洒落にならないぞ。
「なあ、起きたばかりのとこ悪いけど、力を」
名も知らぬ彼女に、手を差し伸べた。
三人力を合わせれば、倒せはしなくともなんとかこの場を凌いで逃げ出せる可能性があるかもしれない。
ラフェムの両親を殺したかもしれないんだ、俺とラフェムの子供二人じゃ心許なさすぎる。
何の魔法が使えるかはわからないが、無いよりマシだ。
ラフェムの無詠唱で繰り出せるほどの屈強な魔法、俺の変則的な魔法、彼女の何か、三つの力を合わせて、相手の目を欺きさえできれば……。
そんな希望は、いとも簡単に砕かれる。
彼女は、手を振り払った。
「死ぬなんて、嫌だ!」
彼女は叫び声をあげて、一目散に走り出した。
……俺たちを身代わりに、逃げたのだ。
俺の中の、無理矢理眠らせていた感情に殴られた気がした。
あ、あ、当たり前だよな。
当たり前だ、こんな状況、俺だってこの星に来てラフェムと出会っていなければ、全く同じことをしでかした筈だ。
起きて知らないやつに手を貸してくれと、勝てるわけのない化け物を前にして言われたら、見捨てて逃げるさ……。
……わかっている。
理解している。
なのに、なんで、どうして、こんなに動揺しているんだ?
手を振り払われるのは、どうにも初めてではないのか……。
ドラゴンは、この様子を喜劇だと嘲笑う。
「あの女の子は賢いねえ! まあ、そもそもオレから逃げるのも、戦うのも、無理に決まってるんだけどなぁ! あんたらには、オレの久々の食事になる以外の選択肢はないんだわ!」
そう言いのけると、俺たちと奴の間に立ち塞がっていた最後のマングローブをその手のようなしっぽで掴み、握り潰しながら根こそぎ引き抜くと、ゴミを捨てるように後ろへ投げ捨てた。
目の前に立ち塞がれて改めて意識する、俺たちなんか平気で丸呑み出来る巨体。いとも容易く腸を引き摺り出せるであろう鋭利な尾と足の爪。
野生動物との勝負をお遊びレベルのものに変えたアイスドラゴンとの死闘を、さらにお遊びレベルに変える圧倒的な存在感、絶望感、威圧感。
血の気がみるみる引いていく。
勝てるわけがない、こんなの……。
足の感覚が消える。視界が白くなる。
勝手に全身が細かく震え出す。息が、肺を握り潰されているように満足に吸うことも吐くこともできない。
「ラ、ラフェム……!」
「わかってる……。絶対に生きて帰る、まだ僕たちにはやらなければならないことが沢山あるんだから…………。人食いの龍、僕たちが貴様に易易と喰われると思うな!」
「潔く諦めなよぉ? そういうの、蛮勇って言うんだぜ!」
翼を広げ、村には聞こえぬように小さく嘲笑の咆哮を上げた。
ラフェムが俺の手首を掴む。
火傷しそうな程に熱い手のひらが、怒りや苦しみ、心に渦巻く情動の強さを伝える。
「エンジャロフラミアアアッ!」
少年は、炎魔法の詠唱を叫ぶ。
撒かれたガソリンに引火したように、海面を覆うよう黄色みを帯びた真っ赤な炎が、ラフェムを中心に一瞬で燃え広がり、辺りを紅蓮に包み込んだ。
俺達と龍を隔てるように、炎の柱が幾つも突き出す。
スノードームのスパンコールの如く舞う無数の火の粉と、強烈な魔法によって創られた陽炎が、俺たちの姿を隠したのを見計らうと、氷の竜の時とは違い、憎き龍に背を向けて走り出した。
氷の竜で反省したのもあるだろうが、あの化け物には絶対に敵わないと、復讐心も勝ち気も殺されてしまうほどに知っているのだろう。
必死に炎の海を駆け抜ける。
目指すは、クアの両親の元。魔法使いがいる村。
仲間を得るために、あの化け物を止めるために。
「腑抜け共! オレから逃げられると思うなよ!」




