#41 エルレーゲの宿
宿に入ったはずなのに、飲食店かのように振る舞われた俺たちは困惑していた。
元々の宿に立て掛けてあった看板が、風で他所の店に動いていってしまったのだろうか? 誰かの悪戯だろうか? それともここはエルレーゲの宿という名前の紛らわしい飯屋なのだろうか?
二人で顔を見合わせ、彼女に聴こえぬよう議論するが、答えは見つからない。
「あ」
突如彼女は声を漏らす。その顔は、しまったと言いたげなものだった。
……どうやら、戸惑い立ち竦む俺達を見て、彼女は何か勘違いしたらしい。
申し訳なさそうに縮こまり、ちょこちょこと後退って離れていく。
「あー……子供にとっちゃあ私は怖いかもな? うん……。な、なぁに、怖いのは見た目だけさ。ほら暖簾の奥に行けば、飛びきり美味い飯食わしてやるから……恐がらないで、怖れないで……」
どうやら、俺たちがビビって固まっていると思っているらしい。
彼女は緊張を解かせようとしたのか、笑ってみせる。表情筋の何もかもが酷く引き攣っていて、逆に怖くなった。どうも作り笑いが下手なようだ。
…………互いに勘違いしたままじゃ、一方に埒が明かない。この場所が何かという正解を、まずは得ようとした。
「あ、あの……俺たち、ご飯食べに来た訳じゃなくて……その、一泊したくて……。エルレーゲの宿って聞いていたんですけど……」
泊まりたい。その意味が瞬時に理解できなかったようで、彼女は難解な方程式を見せられたかのように、ぽかーんと固まってしまった。
そして数秒後。
脳のブレーカーが復旧したかのように、急に声を張り上げ目を見開くと、勢い良く近付いてきて、俺の手を強く握ってきた。
「アンタたち、宿泊客か!? 珍しい! 珍しい! 泊まりに来てくれるだなんて! そう、ここは宿だよ、宿! エルレーゲの宿! 私がエルレーゲ・センペット、宿の主だ!」
先程の怖い笑顔とは全く違う、本当の笑顔を彼女は浮かべる。
大胆不敵、闊達さを感じる、ワイルドな笑み。
か…………か、かわいい……。可愛いぞ、このお姉さん!
あー……やばい! やばい。
つい先日恋心を破かれたばかりだが、また新たな恋が始まりそうだ!
「……ただいま」
密かに胸高鳴らせる俺の背から、相反する抑揚も元気もない暗い声が聞こえてくる。
俺の手を有難そうに握っていた彼女は、更に目を輝かせ、パッと俺から離れると声の主に飛んでいった。
「おかえりあなたっ! あっ、彼は私の旦那、ネロン。漁師よ」
ああ……あなたも既婚者でしたか。
こうして、俺の恋は数秒で破れてしまいましたとさ。こりゃ失恋タイムアタック世界一位だね。不名誉だ。
憂鬱な気分で後ろを振り返る。
先程まで無かったはずの、磯臭い大きな黒い壁がそこにあった。
……壁ではない。人間だ。
見上げないと顔を見ることが出来ない程の大男が、俺の後ろで突っ立っていた。
……見上げたところで、深く被られた麦わら帽子の影で細かくは見れないが。
……顔の右半分には、ライオンか虎か、そういった猛獣に襲われたかのような大きな傷痕が生々しく残っている。
右目はその際に失ったのだろうか、平たいまぶたは、廃墟の門のように閉ざされたまま動かない。
首から下は、全身を隠すようにマントのような大きな布を羽織っているので、体型や魔法を知る手立てとなるマジックローブを確認することが出来ない。
ゴツゴツと角張った手には、サンタクロースのような大きな袋…………一般的に思い起こすようなあの白色では無く、薄暗い肌色の、恐らくは動物の皮で作られたであろう袋を持っていた。
何が入っているのだろうか? パンパンに膨れた袋は重力によって垂れ下がっており、尚且つ濡れている。しかも生臭い。……魚だな。
緑青色の隻眼は、俺が彼を確認している合間も、そして今も、ずっとこっちを見つめていた。
剥製に埋め込まれたガラス製の義眼のように、焦点も瞳孔も、瞼さえも動かない。
なんだか自分の内の奥底を捌かれ晒され、それを見定められているようにも思えて、憂鬱は鳴りを潜め、気味悪さと恐怖が湧き上がった。
なんで、俺だけを見ているのだろうか。
あっ……もしかしたら、初見さんである俺が黙ってるから嫌味ったらしく見てるのか? それとも挨拶しないから、圧をかけているのか?
…………取り敢えず声を掛けてみて、反応を窺おう。
「こんにちは…………こんばんは?」
「……」
「……あの」
「……」
「…………」
この男、寡黙を貫くつもりか。
依然として目はこっちに向いたままだが、口角は微塵も動かない、声を発するために息を吸うことさえしない。完全なる無反応だ。
無視は堪える。
コミュニケーションしたいという意思を無下にされるのは、興味の問題で素っ気なくあしらわれるよりも辛い。
どうすればいいのだろう、どうしたら良かったのだろう。
互いに声を紡げず、妙になってしまった雰囲気。それを見兼ねたのかエルレーゲは、なだめる為か庇う為か旦那に抱き着き、彼の代わりに喋り始めた。
「ごめんな! ネロン、あまり人と付き合うの得意じゃないんだ、人見知りでね。さっ、ネロン! 私はこの二人を部屋に案内するから、あなたは食堂のルクス姉妹のとこへそれ持っていってあげて」
微動だにしなかった男は、妻の声によってようやくまばたきをした。
そしてゆっくりと二回頷くと、暖簾の向こうを目指してのそのそと進み始める。
なんだ、ただの人見知りか。
単純明快な答えに、胸を撫で下ろした。
俺も人見知りのコミュ障だ、何でまた人と話せるようになっているのか不思議で堪らない程に。だから、人と話すのが怖い気持ちは十二分にわかる。
ああ、俺の存在が嫌だったとか、気に食わなかったとかじゃなくて、本当に、本当に良かった。
「じゃ、部屋まで案内するよ! 二人とも着いてきな!」
彼女は俺たちの肩をポンポンと叩いた後、浮き立った足取りで、階段の方へと歩き始めた。
「じゃ、行こうか」
ラフェムは押していた車を、荷物ごと軽々と持ち上げ、歩き出した。
それごと持っていくのかと驚いていたが、それを異常に感じるのは俺だけだ。二人は気付かず先を行く。俺も、急いで二人の後を追って歩き出した。
────────
案内されたのは、一番端の部屋。
白い壁に白い床、敷かれた蒼の皮絨毯。天井には硝子の入れ物が取り付けられていて、その中には優しい橙の光が灯っている。
木の窓を開ければ、穏やかな四角の街と、星遍く空、舟の揺蕩う海原が、くり抜かれた四角の穴に絵画の如く描かれた。
「綺麗だろ? 海が見える部屋はここだけなんだ。…………だから皆、海の見える港沿いの宿に行ってしまう。アトゥールに来る目的の大半は海と魚だからな……」
エルレーゲは、重い溜息を付き、壁へと寄りかかった。
彼女の言う通り、この部屋はあまり人が出入りしないみたいだ。
机やベッド、置かれている家具は綺麗なのだが、クアの宿に泊まった時に無意識に感じたような、人が絶えずここで生活しているという生活感がない。
風化と使用による蝕みが比例してないのだ。
ずっと家具屋の隅で売れ残っている机と、家族の輪の中心となっているダイニングテーブルが、同じ年数を重ねてきたとしても、同じものには感じられないような……そんな感覚レベルの話だが。
あ、でも毎日掃除しているみたいだ。埃や砂は見当たらない。俺だったら絶対掃除しないもん、まめだな。……一応、宿という体裁を取ってるなら当たり前のことかな?
「わざわざここに案内されるってことは、ビリジワンから来たんだよな? 私の宿はビリジワンから一番近くて、逆に言えばラスリィ方面から一番遠い宿なんだよ」
「はい、ラスリィへ荷物を届けに行くんです」
彼女は、ラスリィに行くということを知った瞬間、ほんの少し眉をひそめた。
「なるほどね。……あ、そうだ! 後で食堂に来なよ、暖簾の奥にあるから。美味い魚料理食わせてやるからさ! ラスリィの魚料理じゃ物足りなくなっちまうほど、とびっきりの! 待ってるよ!」
彼女は不敵な笑みを浮かべて、得意げに腕をまくると、壁から跳ね返るように体を起こし、あっという間に廊下と階段を駆け抜け、いなくなってしまった。
「……エルレーゲさん、急に昂ぶって……どうしたんだ?」
「アトゥールとラスリィは、魚と漁と舟に関して自信を持ってるから、互いに意識してるんだ」
「ライバルか……」
「取り敢えず、支度を整えたら下に行こうか」
ラフェムは手慰みに弄っていた、可愛い魚の硝子細工のアクセサリーに繋がれたこの部屋の鍵を、部屋の中央にある丸い机の上へ置く。
そしてベッドに腰掛けると、寝巻きやタオルなどこのあと使うであろう物、依頼された物が詰まっている風呂敷、おやつの入った紙袋など、袋の中身を取り出してポンポンポンと隣に並べ始めた。
「……手伝おうか?」
「いいよ。すぐ終わるし。待ってて」
……俺は何もすることがないので、置かれたばかりの鍵を手に取って、魚を照明に翳したり、曲面を撫でたりして持て余した暇を浪費する。
…………夕飯…………。
魚料理といえば、蒲焼、塩焼き、照り焼き、フライ、ムニエル、沢山あるな。ちくわとかつくねとか加工品も魚料理扱いなのかな?
ふと、思い浮かぶ……。
…………刺身や寿司はあるだろうか?
タコやワカメのように、美味しいのに忌避されている海産物はあるだろうか?
日本では普通なのに、ここには無い物があるのだろうか?
せっかくの異世界転生なのだから、一度やってみたい事がある。
自分の知識をひけらかしてみたい。
そしてパイオニアとして、名を残したい…………。
一応は記憶喪失の旅人だから、斬新なアイデアを思い付いたように……いや、それだと卑怯っぽいかな、都合よく思い出したように作って見せて…………。
いけそう。絶対いける。凄いって讃えられるぞ。
下に行こうと呼びかける、友の声も聞こえぬほど妄想に入り浸っていた俺。肩をゆすられ、ようやく現実へ意識が戻る。
「なんか楽しそうだが、どうした?」
「えっ、顔に出てたか!? いや、魚料理が楽しみで……!」
「そうか、腹減ったもんな。じゃあ早く行こうぜ! 僕、昼食べてないからもう倒れそうなんだよ……」
彼は、食後すぐに風呂に入るつもりなのだろう、パジャマ一式とタオルを抱えて部屋を出た。
俺も外へ出て……しっかり施錠を忘れずにしてから、心から溢れ漏れ出してしまう高揚をできる限り抑え込んで、いち早く食事にありつきたいと、いつもより早足のラフェムの元へと向かっていった。




