#33 極寒との決戦を前に
全てが凍り付く、夏らしからぬ夜。
それを凌ぐレンガの空間に、燈された火の下。
風呂に浸かったばかりで火照った俺たち二人は、沈黙の最中にいた。
ラフェムはベットに腰掛け、俺はマットレスにあぐらをかき、真っ黒のダウンジャケットのほつれを地道に縫っている。
「明日原因がわかれば、やっとこの上着も仕舞えるのかな」
ラフェムが、呟くように寡黙を破ると、縫い終わったジャケットを目の前に掲げた。
その合成繊維では無い、しかしながら独特な艶を持つ生地は、よく見ればどれも無数の細かい傷まみれだ。
長年連れ添ったのが見て取れる、風格漂うジャケットを、少年は優しく折り畳むと、次の修繕に取り掛かった。
……カフェでの昼食を終え、クアにロネちゃんとエイポンさんへの土産を託した後。俺たちは万全を期す為に帰宅し、明日の支度をしていた。
剣や本のメンテナンスも終わり、鞄の整理も家事も済ました今、俺達はかの冷風に耐えられるよう、あの大量のダウンジャケットの補修に励んでいるのだ。
笑ってしまう程にピチピチパンパン重ねに重ねて着込むせいで、脇の下だとかの繋ぎ目が広がったり、破けたりしてしまっているからな。
……繕うといっても、ちゃんと繕えてるのはラフェムだけで、不慣れな俺は針を指に刺しては悶える時間のが圧倒的に多いし、肝心な穴は全く塞がらな、ぎゃ……またまたまた刺したぁ! あああ!
指に針を刺すと、血の代わりに緑の光破片が飛び散って、そして空気に溶けて無くなる。
グサグサ刺さってはパチパチ光が散る。俺の手は、もはや魔法花火大会会場だ。
くそー、めっちゃ痛いな……。
「……そんな涙目になってまで無理しなくても……僕がやるから」
あまりにも騒ぐもんだから、心配されてしまった。
俺を見ているその間にも、彼の手は精密な動きでほつれを修繕し続けていた。
この通り、凄く器用な彼がやった方が俺も傷付かないし速いんだけども……。
「頼ってばっかじゃ悪いから……あと、今は駄目駄目でも、こうやって練習を積まなきゃ、いつまで経っても出来なあっ……!」
強がっていたらまた刺した。
が、今回はぐっと堪え、平気だと笑ってみせる。
言葉だけじゃなんとでも言える。
断固として自分でやり切りたいと言う事を伝えたくば、態度で示すしかないのだ。
「だから、俺もうちょっと頑張ってみるよ、ごめんな」
「だ、だけど」
「いいってば」
彼は、やれやれと言いたげに苦笑する。
幾許か、感心と敬意の含まれた呆れ顔だった。
「……うん、わかったよ。……けど、それじゃやっぱ痛いだろ。ほら」
コートの内ポケットから何かを取り出し、こっちへ放り投げた。
ある程度の重みがあるそれは、俺の頭に当たって、ペチっと音を鳴らして手元に落ちた。
拾い上げてみる。少し硬さがあるカーキグリーンの……これは、カスィーが作ってくれたトカゲ革製手袋の左側だ。
「これをはめておけば、少しはマシだろ?」
「おう、ありがとう……」
さっそく身につけ、作業を再開した。
激闘を繰り広げたあのレプトフィールの厚い革は、か細い針など屁でも無い。
指先に、針がぶつかったという情報は伝われど、激痛までは伝わらない。
こりゃいいや、痛みに怯えずに済む。怯えなくていいから、作業が少し捗った。
銀と糸を布に潜らせ、そしてまた浮き上がらせる。ちくちくと、ちくちくと。
軌跡は蛇行してるし、縫い幅は全く統一されてないし、かなり下手くそだけれども、順調にダウンジャケットの穴は小さくなっていく。
一針縫えば、地道だが確実に一針分完成へと近付く。
近付くにつれ、俺の指と針の衝突回数は減り、よれる点線は次第にしゃんとしていく。
あと少し……。
もうちょっと。
……よし!
拙いながらも一歩一歩を積み重ね、ようやくやり遂げた!
「出来た…………っふぁあ……」
立ち上がり、喜びの言葉を上げようと口を開いた途端、あくびが声を出し抜いた。
結露まみれの窓を見れば、既に世は常闇。
とっくのとうに全てのジャケットの修繕を終えていたラフェムは、頭をふらふら、アホ毛をふよふよさせながらあくびをして、今にも閉じてしまいそうなぐらいに瞼を垂らしている。
……もう眠る時間になってしまっていた。
……いや、寝る前に終わらせられた! というべきだ。
「……え? 出来た?」
彼がこっちを見た。めちゃくちゃ遅い反応速度だ、相当眠いらしい。
……でも、俺が終わるまで待っててくれたんだ…………。
「偉いなぁ」
彼は微笑み、そう一言、父親かのように優しい声をゆっくり発した。
褒められると、素直にちょっぴり嬉しい。
「明日に、備えて、もう寝ようか……。針は、ちゃんと机の上に…………」
言葉は空気を含んで掠れ、しかも途切れ途切れになっている。頭の揺れも増してきた。
彼は限界のようだ、急いで針を机の上に、そしてジャケットを、他のと同じように部屋の隅に畳んで置いた。
片付けを見届けた彼は、大きなあくびをすると「おやすみ」と言って、ベットに倒れる。
同時に、天井の炎が燃え尽きるように消滅し、部屋の明るさが窓の向こうと同等になった。
……俺も眠いや、目を閉じたら一瞬で意識を失いそ……。
ラフェムに「おやすみ」を返す。届いているかは知らないが……。
窓枠の向こう側を眺めた。地上の異常気象など知りもしない穏やかな月と星が、ぼんやりと煌めいている。
ああ、今日も一段と寒そうな風が吹き荒れている。
リスもどき達は平気だろうか……。
寒いよな……。土も木も凍るんだもの……。平気かな。
……………………。
……脳が回らない……。もう限界……今心配しても……どうしようもないし……明日のために、もう、寝なきゃ…………。
────────────
「…………………………ここは夢か?」
いつの間にか、闇夜よりも暗い謎の世界で、俺は立ち尽くしていた。
……そうだ、今まで忘れてたが、そういえばこの夢は見たことがある、あの悪夢の時の……。
確かあれは……三日前。
「ライタ……」
うわ出た!
嫌な赤!
嫌な感情を湧き立たせる気色悪い赤いモヤが、俺の名を呼びながら、遠くで亡霊のように彷徨っている。
「ライタ……どうしてだ」
虚ろにボソボソ呟く赤。
何がだよ! 知らねーよ、バーカ!
悲しげにこだまするアイツの声が憎い。
牢獄のようなこの世界に、再び連れて来られた理不尽に腹が立つ。
……どうせこっちの声は聞こえないし、何をしても無駄だ。目が覚めるまで無視しとこ。
赤い何かから心少し離れて、静かに腰をおろす。
地面は柔らかくも硬くもない。そして熱くも冷たくもない。
まるで生も死も無い世界の物みたいな……そんな感じがした。
暫く、あの憎い何かを見ていた。
アイツは本当に俺の声どころか存在も何も感じていないようで、見当外れの場所をゾンビのように徘徊し続けていた。
何もすることが無いのだが、夢の中だからか眠くならない。ただ途方に暇だ。
なんで二回も同じ夢を見るのだろう。時の経過が苦痛にならない、まともな夢がみたいよ。
手持ち無沙汰に嘆くことさえ飽きるぐらいに時が経った頃、単なる偶然で、アイツがこっちの方に向かってきた。
近付かれる度、吐き気や狂気が臓腑の底から噴き上がってくる。
俺は心底アイツの事が嫌いなんだなと改めて自覚しつつ、バレないようにこの場からそっと離れようと試みた。
「……ライタ!?」
!?
赤いモヤが、手を伸ばすように横に伸びた。俺を掴もうとする。
バレたのだ!
間一髪で、転がるように触手の射程距離から抜け出して、ひたすらに駆け出した。
「来るな! 来るな! 来るな! 来るなああああああ!」
「行くな! 戻ってこい!」
「来るなっつってんだろ馬鹿!」
祈りの怒号は奴の心を揺さぶれない。アイツは俺の心境をガン無視して、猛スピードで追い掛けてくる。
悍ましい威圧が背を駆け上がる。勇気を決して後ろを見た。
「うわああああ! もう真後ろじゃねーか!」
アイツのほうが足が速い! いや、もやに足なんか無い。無いから速いのか!?
もっと速く走らな──
「うぎゃっ!?」
突然、俺の視界がピカピカ白黒点滅する。そして、壁に叩きつけられたような痛みが全身を駆け抜けた。
あまりに焦りすぎて、自分の足を絡ませて転んじまったのだ!
やばい! やばい!
立ち上がらなければ……そう思った時にはもう手遅れだった。
赤いモヤは、捕食するスライムのように、薄く大きく液体のように、俺の上に広がっていた。
…………捕まったらどうなるんだろう?
考えるのも恐ろしい。
これ、ただの夢だよな? 夢だよな?
夢なのに……死ぬという直感がする…………死の恐怖がじわじわと蝕んで、爪先から脳天まで震え上がらせる。
「だ、誰か、ラフェム、ラフェム……!
俺を、起こしてくれ、頼む、頼む……」
腰が抜けた俺の体はもう動かせない。そもそも動いたところで、この投網からは逃れられない。だから必死に他力本願する。
だが、無情にも何も起こりやしない。何も無い暗闇、不愉快な赤いモヤが、俺に降り注ぎ…………!
ゴオオオ………………ッ!
「ぐがぁ……!? 熱、熱ッ!」
突如鳴り響いた、激昂せし龍の咆哮に似た、炎の燃え盛る轟音。
不快な赤いモヤを、突然姿を見せた別の赤いモヤが突き飛ばしたのだ。
何故だろう、そこにいるのはただの二つの不定形なモヤなのに……。新しい方が不快な方に飛び蹴りを喰らわせたような感じがした。
「ぐぐげ……!? 何だ? 何だ!?」
「……………………」
不快なモヤは、火傷でもしたのか苦しそうに喘ぎながら、吹き飛ばされた着地地点から再びこっちに迫ることはなく、縮こまって震えている。
新しく現れた赤は、それを見つめる様にその場に浮いて、パチパチと焼ける音を放っていた。
まるで真の炎のように……。
……この炎は見たことがある。
「君、ラフェムか? ゆ、夢の中にまで助けに来てくれたのか……!?」
……炎はラフェムという言葉に反応して、こちらを振り返った……ような気がする。
奥でうずくまってる……ような気がするムカつく奴とは違って、彼は喋らなかった。
まあ、ラフェムは寡黙だからな。
「ありがとうラフェム……。夢の中でも助けて貰っちゃって……」
彼は声を発しない。
けれども、誇らしげに胸を張っている。そんな感覚がした。
あ、安心したら腰が抜けたの治っちゃった。立ち上がろう。そう思って、ふくらはぎに力を込めたときだった。
突然蠢く醜い赤。
俺もラフェムも、咄嗟に戦闘の体勢を取る。
「ライタ、そんなに私が憎いのか。でも、私は」
静寂の中に、ポツンと吐き捨てられた不快な声が、広い暗闇の中に不気味な程反響した。
……。
……カァ……。
カーン……。
カーン、カーン……、カーン………………。
胴に響く鐘の音が、俺の意識を闇黒から現実へと連れ戻す。
ああ、朝だ。
ようやく夢から逃れられた。
全く……あんな夢はもう見たくないぜ、ほんと、あんな……。
どんな…………?
俺は今、何か夢を見ていたはずなんだけど、しかも途中まで忘れたくても忘れられないほど酷い悪夢だったような……。
でも、何? 思い出せないぞ、つい数秒前までいた場所も、考えてたことも……。
……思い出せない嫌な事なら、無理に思い出さなくてもいいよな。
……この言葉、前にも……いや、いいや。
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飯は旨くて新鮮な物を腹八分目食った。
寒さに耐えるジャケットも一枚残さず脇に抱えて、外に出た。
剣も良し、鞄も良し。コートがシワになっていたので、軽くはたくと仄かなせっけんの残り香が舞う。
「準備はいいか?」
「万全すぎるぐらいだ」
「ふはは。じゃあ行こうか、洞窟へ」
俺たちを祝福するかのようにあまねく青空、太陽の日差し、朝の爽やかな風。
昨日の夜など嘘だったかのような夏の中を、俺たちは颯爽と駆け抜けていった。




