#3 翡翠丘の麓街 ビリジワン
「ふう、着いた着いた。しかし、いつもの俺だったら途中でバテてるはずだけど、一度も足止めなくて平気だったな……体も嘘みたいに軽いし、転生のおかげか身体能力かなり上がってるみたいだな」
なんとか、太陽が沈んで景色が見えなくなる前に、目的の街の入り口に着いた。
巨大なアーチ看板を境に、翠の芝から打って変わり、赤茶色のレンガが丁寧に敷き詰められた大きな道が、終わりが見えぬほど遠くまで伸びている。
その両端には、建物と外灯がずらりと並んでいた。その外形は、まるで商店街だ。
とりあえずここまで来れば、野獣やらなんやらに襲われる心配はないだろう。ひとまず安心だ。
……ん? アーチ看板に何か文字が書いてある。これは……街の名前だろうか。
目を凝らし、薄暗に溶けつつある文字を読み解く。
一切見覚えのない文字だったが、頭の中で翻訳されているのか、それとも根底の知識まで変わってしまっているのかはわからないが、未知の文を普通にアルファベットとして読むことが出来る。
何々、ブイ……〝VIRIDIONE〟。あー、……? そういえばこんな名前見たことあるな、絵の具だっけ。いや、見たことない。
……アルファベットとして読めても、その意味まで理解できるかというと、それは別のようだ……。
まあそんなことは二の次。俺は、ブイなんとかやらと名付けられた、異世界人が営む空間に足を踏み入れる。この夜が明けるまで安全に身を休める宿屋を探す為に。
ゆっくりと辺りを眺めながら、見知らぬ大通りの隅を歩く。
街の建物も床と同じく、主に落ち着いた茶色系のレンガから作られている。
外灯は洋風の、そう、洒落た家のような形のランタンに、棒を刺したようなもの。
で、ガラス張りの箱の内では、小さな炎が浮遊し揺らめいている。
火の明かりを頼りに、一軒一軒、宿屋かどうか確かめながら、大通りの先へ進んでいく。
ところが、いつまで経っても宿屋が見つからない。
天の星はだいぶ目立ち始め、空気もかなり冷え込んできた。
これでは本当に凍死してしまうかもしれない。刻一刻と下がる明度と気温に、比例して不安が沸き上がる。
その不安に急かされて、歩くスピードを徐々にあげるのだが、やはり進めど進めど宿は無い。
現地の人に聞こうにも、花屋、服屋、道具屋、どの店ももう既に人の気配は無く、扉は頑丈に閉ざされている。
その上、この大きい道に、誰一人の存在を感じない。
もうここの住民は寝ているのだろうか?
それともこの街はそもそも誰も住んでいないゴーストタウンなのか?
大地を覆う冷気は、足首を掴み、じわじわと体温を奪ってくる。
やばい、早くしないと。
焦燥のままに、駆け出そうとしたときであった。
「ふぃー、寒、寒」
静寂な大気に響く独り言と共に、少々先の小道から、俺と同じぐらいの年と思われる男が姿を現した。
文字と同じ様に、言葉も勝手に理解できるようになっているというのは、今はどうでもいい。
ただでさえ暑そうな漆黒のダウンジャケットを何重にも着込んでいるようで、人間の体のラインと関節を失ったモコモコの塊と化している。
フードさえも重ねて被っており、顔以外の肌を一切露出しない、完璧な防寒だった。
彼は、こちらに気付いていないようで、ブルブル震えながら、じっと対向で街を照らす外灯を見上げている。
……人と話すのは凄く苦手なのだが……。
しかし、今はそんなことで躊躇っていられない。
このチャンス、逃すものか。
臆病者の自分を押し殺し、意を決して俺はモコモコの方へ一直線に走り出した。
「なんだ……? なんだ!?」
彼は、近付いていく俺の足音に驚き振り向いて、そして俺の姿を見てまたもや驚いた。
驚愕し固まった少年の前で足を止める。
前に来たはいいけれど、まだ声を出す心の準備が出来ていない。
一回、気付かれないよう小さな深呼吸して、跳ね上がる鼓動を抑えようと試みた。
ものを照らすのは、外灯の炎と月光のみの薄明かりのみ。そしてその僅かな光さえも、深く被っているフードの影が遮ってしまって、あまり細かい表情は見えないが、彼は確かに猜疑を抱いて、大体頭一個ぶん高い俺の顔を見上げている。
……まあ、何もかも凍てつかせるような極寒の外を、防寒具無しに歩き回る見知らぬ人間など、不審者と判断されても当然だろう。でも、その防寒具もそれはそれで逆に怪しいと俺は思うけど。
そんなことより、俺は生き延びるために宿がどこか聞かなければならないのだ。
「すみません、あの、その、俺、困ってて……ちょっと聞きたい事があるんですけど……良いですか?」
「…………ああ、別に構わないけど……寒くないの? 夜なのにその格好って」
モコモコは俺の姿を見て、ますます寒そうに歯を食い縛り、しきりに腕や手をこすり始めた。こっちも更に寒くなってきた。
「これはー……まあ、ちょっと色々な事情があって……正直、本当に凍えそうで……は、ははっ……。それで、寒さを凌ぐためにも早く宿屋に行きたいのですが、それが全然見つからなくて」
苦笑混じりにそう言うと、俺の状態に合点がいったのか、彼の赤い目から不信の陰りが薄れ、表情は若干だが穏やかになる。
「なるほど……なるほどね。君は、他の街から来たばかりの旅人さん、ってことか。……案内するよ。あと寒いだろ? これ貸すから着て」
う……旅人ではないのだが……。
でもここで否定して話を複雑にするのも面倒だし、ここは旅人として振る舞う事にしよう。
モコモコは、ピッチピチのダウンジャケットを一着、全力で引っ張るようにして脱いで、俺に渡した。
一着自体、かなりの厚さなのだがそれを脱いだモコモコは一回りも小さくなっていない。それどころか、更に膨らんだようにも思える……無理矢理潰して着ているらしい。一体何枚着ているんだ……。
そんな疑問を抱きつつもありがたく羽織ると、ジャケットの中でほのかに火が灯っているような、優しい暖かさが俺を包んだ。
「こっちだ。僕についてきて」
彼は小道へ踵を返した。
周りの暗黒と同じ色の彼の背を見失わぬよう、駆け足で追う。
たった九十度曲がっただけなのに、商店街の様だった風景は、住宅街のような様相に変わった。
店と住まいが入り交じるここでは、先程まで微塵にも感じ取れなかった生活の鼓動が感じられる。
漏れ出す家庭の明かり、家族の楽しげな会話に、家事の物音……この街は生きている。
この街の名は、〝ビリジワン〟
道行く途中、彼が教えてくれた。
先程いた大通りは本当に商店街で、宿や家はその店の後ろに集まっているという。
他にも、最近は夜中が異常に冷え込むので誰も外に出てこないことや、昼は色々な人が大通りを賑やかしていること、あとさっき見つめてた外灯は、このモコモコが管理していることなど、この街のことを沢山教えてくれた。
話の区切りの良いところで、目当ての宿に到着する。
モコモコは、その寸胴な腕を伸ばし、壁に立て掛けられた板を指差した。
大きく〝クアの宿〟と書かれており、その文字の周りは大雑把で太い線で描かれた花の絵で飾られていた。両方とも、強い癖のある書き方だ。
この文字は、アーチ看板と違って、日本語の感覚ですらりと読めた。
どうやらこの世界には英語と日本語のような、二つの言語があるらしい。
モコモコは、俺が看板を理解したのを見計らうと、大きな木製の扉を押して、宿の中へと入った。
後に続き、俺も室内へと移動する。
酷烈な寒さから一転、建物は心地よい暖かさで保たれており、凍えて縮こまった身があっという間にほぐされる。
ようやく羽を伸ばして休めそうだ。不安から解放され、ひとまず胸を撫で下ろした。
うん。ここまで来れば、後はなんとかなるだろう。
借りたダウンジャケットを返すために脱ぎ、彼に感謝の声をかけようとした。
その瞬間。
奥から穿くように放たれた黄色い声に、俺の言葉はかき消された。
「きゃー! ラフェムじゃん! やだぁどうしたのっ? というかやっぱりそれ着すぎでしょー」
甲高い歓喜の叫びにビビって、その声の主の方角を見る。
奥の受付で、またもや同じ年頃の、水色の長髪をした少女が、あたかも有名人と遭遇したかのような喜びようで、少年に手を振っていた。
……モコモコの名前はラフェムらしい。
「外に出る事さえ珍しいのに、こんな時間にここに来るなんて尚更ね! もしかしてワタシに会いたくなったとか!? キャー!」
彼女は、まだラフェムの影にいる俺の存在に気付いていないようだ。いや、俺が眼中に無いだけ?
少年は、気怠げそうに、ため息のような深い呼吸をして、すっぽり被っていたフードの塊を外した。
茜色のくせっ毛が露になる。
一房ぴょこりと上へ、もう一房横へと跳ねた。
「宿に行きたいって言う人がいたんで連れてきただけだ。僕は少し暖まってから帰るよ」
そう言うと、彼は横にずれた。
受付の女の子と目が合った。
「あら」
彼女はようやく俺の存在を認知したようで、一瞬硬直したのち、淡く頬を桜色に染めながら、口を押さえて顔を横に振った。長い髪は少し遅れて、連動してはためく。
「やだぁー、私ったら。 ラフェムに気を取られてて気付かなかったー! ごめんなさいね。宿泊ならすぐ休めるよう手続きするから、こちらに来てもらえるかしら」
改めて、彼に上着と案内の感謝と共にジャケットを返した後、石づくりのフロントデスクに近付き、そこに置かれている紙とノートを見た。
紙の方には、部屋の種類と値段が書き並べてあった。料金は先払いのようだ。
一番高い部屋は、独りじゃ寂しいほど広い。
そして朝御飯には、高級な果物や肉が出てくるらしい。
逆に一番安い部屋は、普通の部屋に質素なパンと目玉焼きがついてくる。
まだこの世界に慣れていないどころか何も知らないのに、一日だけ泊まる宿に大金をかける訳にもいかない。一番安い部屋にすることにしよう。
ノートの方は、選んだ種類と、自分の名前を記入するようだ。
羽ペンを手に取り、上に書かれた先客に倣い、部屋のマークと名前を書いた。
一番安い部屋は三銅、つまり銅貨三枚分。
お金を取り出そうと、ショルダーバッグを机の上に置く。
鞄を開けたとき、水色の彼女が、不思議そうに俺の書いた跡を不思議そうに凝視していることに気付いた。
おや? おやおや? 俺の文字がそんなに美しくて見惚れているのかな?
そんな馬鹿らしい自惚れをしていると、彼女は眉をひそめ、尋ねてきた。
「これ……読めないわ。何て読むの?」
「えっ? ちゃんとショウセ ライタって書い……うわぁ! カタカナだ、マジかよ」
……俺の書いた文字は、なんと日本語だった。
どうやら読むことや話すことは出来ても、書くのは駄目みたいだ。何故。
彼女は戸惑う俺を他所に、ショーセライタと逆さまのノートにふり始めた。
書けないものは仕方がないのだが、とても恥ずかしい。早くお金を払って部屋に籠ろう、そう思って乱暴にバックを開ける。
…………。
……?
「あれ……?」
おかしい、金らしきものが一切見当たらない。
まさか。
血の気が引いていく。こういうのって、多少金貨なり銀貨なり入っているものじゃあ無いのか?
俺が見たラノベはそうだった。あとは、現代日本の服とかを珍しがられて売るとか。でも、金も服も私物もない!
何度も鞄の中を漁るが、ないものはない。
ここまで連れていってもらって、サインまでして、お金がありませんでした……なんて言ったら、どれ程にそしられ、なぶられるだろうか。
そもそも旅人という設定なのに自分の持ち物を把握していないなんて、怪しまれるに決まっている。寒気がする。
こんなはずでは。
焦りに焦り、鞄をひっくり返した。
中身は硬い机にぶつかって、ドスンとこもった音と、カランと軽い澄んだ音の二つを鳴らす。
アンティークな万年筆と、辞書の様に分厚い本、そして場違いな現代のプラスチック製消しゴム。
持ち物、以上。
その三つ以外、埃さえも鞄には入っていなかった。
「あ、はは……ははは、はははははははっ!」
もはや笑うしかなかった。
いや全く面白くないのだが、勝手に笑いが込み上げてくる。
少女は、俺を完全に変人と判定したのだろう。不自然に引き攣った笑みで、助けてくれと言いたげに、入り口近くのソファーで休んでいるラフェムを横目でちらちらと見ている。
彼は関わりたくなさげに傍観していたが、大きなため息をついてから、重い腰を持ち上げ、のそのそと近付いてきた。
俺の隣に立つと、まあまあ落ち着けと宥めるような手振りをする。
「ショーセだったか。どうしたんだ、いきなり鞄の中身を撒いた挙げ句笑い出して。怖いぞ」
「す、すみません……。せっかくここまで来たのに……お金が一銅もないんです」
正直にそう言うと、ラフェムは、そんなまさかと、呆れたにやけ顔で、俺の鞄を覗いた。
すぐに冗談では無いことを察したようで、みるみる真顔になっていく。
俺と目を合わせ妙な間を置いた後に、本当だ、と一言呟いて、気まずそうに笑った。
彼は腕を組み、眉間に皺をよせて唸る。
これって完全に怪しまれてるよなぁ。警察みたいなの呼ばれたらやばいなぁ。
さりげなく逃げようと、重心を出口側に傾けたその瞬間だった。
彼は両手を広げ、困った表情で首を横に降る。
やれやれ。そんな心の声が聞こえてくるような、あからさまな仕草をしてから、真剣な表情で話し始めた。
「しょうがないなぁ。もう夜遅いし、僕がお金出すよ。でも、ただで貸すほど僕は善人じゃあないよ、明日働いて返すって約束してくれるならね」
「な、あ、うえっ!?」
予想と違う提案に、つい間抜けた声を出してしまった。助けてくれるなんて。
彼の計り知れない寛容な人格に仰天しながら、初めて出会った人間が彼で本当に良かったと、心の底から強く思った。
「……出来ることならなんでもやります、約束します」
真摯に、迷いのない声で彼の提案に乗ると、ラフェムは信用してくれたようで穏やかに微笑んでから、戸の方へ体を向けた。
「じゃあクア、そういうことだ。明日返すからツケでよろしく。僕はまた朝ここに来るから、詳しいことはそこで」
彼はそう言い、ふらりと歩き出した。
猫背にまんまるな外貌自体は決して格好いいものとは言えないが、俺には頼もしい立派な背中に見えた。
俺は心の底から彼を感謝し、頭を深く下げて敬意を表した。
続くように、クアと呼ばれた彼女は、明るい声で明日また会いましょう等と、気さくに別れの挨拶を次々述べる。
ラフェムは、こちらへ振り返ることも止まることもなく、静かに宿から出ていった。
扉が完全に閉じ、蝶番の軋む音が完全に消えた瞬間。
クアは、またまた頬を染めて髪を左右に揺らし始めた。
「うっふふ、ラフェムったら優しくて格好いい! 本当に素敵な人だわ、さすが勇者」
どうやら彼女、ラフェムにベタ惚れのようだ。そして恥ずかしい時、顔を横に振るのが癖らしい。
「えーっ……と、ショーセ! あんた、ラフェムに感謝なさい! はい、これはあんたの部屋の鍵。二階登ってすぐの部屋だから。今日はもう疲れてるでしょうから、とりあえず休みなさい、ね? おやすみなさい。」
ばら蒔いた所有物を鞄に仕舞った後、Aと彫られた、昔のホテルで良く見た半透明の長方形の飾り付きの銀色の鍵を貰った。
彼女は、受付の左すぐにある階段を指差す。
あれを登っていけばいいんだな。
「ありがとうございます、おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
不敵に笑いながら、彼女は手を振った。俺も手を振り返して、階段へ向かった。
……しかし、何も知らない世界で、持っているのは使えるのかも判らない筆記用具だけ、金さえもないなんてなぁ。
明日、これからずっと、どう乗り越え生きていけばいいのだろうか。憂苦が、沸騰した鍋の底から溢れる泡のごとく、荒々しく胸を埋める。
だが、やはり今はどうしようもない。解決しようが無いからこう悩むのだ。
とにかく今日は言われた通り早く寝て、また明日、暇が出来たらその時にゆっくり考えることにしよう。




