#26 幼子の確固たる夢
俺がちょいと遅れを取って浴室に入った時、既に石鹸の爽やかな匂いがこの小さな部屋に満遍なく立ち込めていた。
シャワーの下に二人、その右には大きな湯船。
ラフェムは、ルシエの後ろに座って、その淡い水色の頭を洗ってやっている。
彼の肩甲骨浮き出る逞しい背中から、ほのかに父性の面影を見た。
滲み出る優しさ、頼りになる雄姿。
それを形成した彼の両親は本当に規範的で、無限で無償の愛に満ちていたのだろう。自分の親とは違う。そう俺は思った。
……でも、何が違うのだろう?
そりゃあ詳しい記憶は全く思い浮かべられないけれども、確信と保証を持てる結論に対しての理由が不明瞭すぎる事に、ただならぬ違和感を覚えた。
何を物差しにして、違うと思っている?
大体、仮に俺の両親が両親あるまじき者だとして、では俺は何で家族愛を、母性と父性が何たるかを理解しているんだ?
親が親じゃなきゃ、こうやってちゃんと無償の慈愛を包括する他所の家で長く暮らしたりしない限り、知り得るはずないよな?
いや、自分を疑うのはやめよう、記憶の欠落した今そんなことを考えては鬱の深淵に落ちる。俺は正しいのだ。俺の家族はラフェムやカスィーとは違うのだ。
三人が入って体を洗える程度に広い床と、三人入る前提で水が半分ほどしか貯められていない広い湯船。フレイマー家よりも少々大きい風呂場だ。
二人の邪魔にならなくて、尚かつ自分が壁やらに近過ぎて不便にもならない、ちょうどいい位置に木桶の椅子を置いてくれている。
どっちがやってくれたのかはわからないが、その些細な親切に感謝しながら、そこに腰掛けた。
「すまん、ちょっと体洗うやつ……取って貰えないか?」
「あっ! ぼくが取る! ぼくが取る!」
ちょっと目を離した隙に、髪をモヒカンのように盛られていたルシエは、流れた泡で覆われた腕を突き出すと、バシバシと台座を平手で叩きながら、石鹸を探し始めた。
乱雑な手探りに、ラフェムは本当の父のように、愛おしそうに笑う。
「もーう、今は泡で見えないんだから! はい」
ルシエにとっては全く見当外れの方向にあった、扁平な体用スポンジと、角の削れて楕円になった石鹸を取ると、それで未だに台を探る小さな手をつついた。
すぐにグルンと手の平を返し、飢えた金魚のように空を何度か勢い良く噛む。
そしてやっと目的のスポンジにあり付くと、しっかりと掴み、そのまま腕を水平に後ろへと回した。
「おっ、ありがとな」
バトンの如く受け取ると、役目を終えたコッペパンのような腕はゆっくり戻っていった。
早速ゴシゴシと泡立ててみる。
手元から舞い上がる石鹸の香りは、フレイマー家のと微妙に違う。あっちの方が僅かに甘ったるいというか、こっちがすっきりしているというか。心地よい匂いは気分を澄みきらせ、晴れやかにしてくれる。
充分に柔らかな白が出来たので、一掴み分の泡を掬い、残りとスポンジを足と股の狭間に置いて、髪を洗い始めた。
いやぁ、洗髪、洗顔、体洗いまでこれ一個でオッケーなの、楽ちんだなぁ。
現代人が几帳面に、あれはあれ、これはこれって分け過ぎなだけかもしれないけど。
垂れる泡に目を塞がれてからちょっとして、水の落下と子供のはしゃぎ声が織物の様に組み込んだ音がすぐ傍で繰り広げられる。
止むと同時に、ドっプンと、水が重きものを飲み込んだ音が一つあがった。
ルシエが湯船に飛び込んだのだろう。
水嵩はあまり無かったから滝は起こらなかったけれど、俺の右半身に熱い水飛沫が点々と降り掛かったのを感じた。
頭皮をくまなく洗い、そのまま洗顔にシフト。
それが済んだら、今度はスポンジで体を洗う。戦闘と熱射の汗に濡れた全身を、一箇所の欠けもなく泡ダルマにした。これで、汚れは全部落ちるだろう。
「ラフェム、シャワー取ってくれ」
「……取る? あれを? ……?」
ああ……ホースじゃなくて天井に直に付いてるんだった……。
「ごめんごめん、シャワーの場所取らせてくれって言う意味で……。言葉が足りなかった。泡落とさせてくれ」
ふーん、と不思議そうに鼻を鳴らし、俺の手首を掴み、立ち上がらせる。
進行方向にあった椅子……ラフェムが座っていた椅子を彼自身が邪魔にならないようにと蹴っ飛ばしたのか、タイルの床を滑るガラガラ音が鳴った。
「ここ」
誘導し終わって彼が手を離した途端、俺は天から降り始めたお湯に曝される。
湯加減が何となく、ビリジワンよりぬるい気がした。
……この家に、炎魔法使いはいない。しかし、煙突は無かった、だから火で沸かすことは出来ない。じゃあ、どうやってお湯を作っているのだろう。
そういえば、ビリジワンの街灯、この家の光。誰かの魔法が、当然のようにそこにあった。あれは誰の魔法なんだろう? もしかして、凄い魔法使いが街にいて、こうして民に供給してくれているのだろうか。
なんて考えているうちに、頭と顔の泡は流れ落ちたようだ。
固く閉ざしていたまぶたを開く。ここと湯船の狭間の天井に備え付けられた照明の眩しさに少々目がくらんだ。眩しさから視線を背けた先の、角に納まって立っているラフェムは、まだ髪を洗っていた。
……あの毛量にうねりは、洗うのが大変そうだな、まあハゲよりマシか。
毛ほどの流し残しもない事を確認し、シャワーを止めて浴槽に入る。
腰を降ろすと、半分しかなかった水嵩が、一気に七分ほどの高さまでに上がった。
真ん中を陣取っていたルシエは、ちょこちょことこちらに近付いて、俺にへばりつく。
「そういえばヨーセは、何魔法使いなの? 緑だから風? 服の模様、初めて見たやつだからわからなかったんだ! ねえ見せて見せて!」
ああ………………子供の無垢と好奇心がこれほどまでに厄介な強敵だったとは。
ふと悪意無く、悪気無く、俺らの弱点を的確に踏み込んでいく豪運に、尊敬まで覚えそうだ。
腕にしがみつき、俺の顔を見上げて、照明にも劣らないぐらい目を輝かせて答えをまだかまだかと待っている。
どの魔法でもないあの魔法は、素直にベラベラ話していい代物なのだろうか、いやカスィーの前で使ってしまったが……。
本が無いから、ここでは出せない事を信じてくれるのだろうか。面倒だし、いっそ魔法なんて無いって嘘つくか? それは悪いかな……。
どう回答するのが正解なんだろう。
「あー、ショーセはな、実は記憶喪失なんだ。だから魔法が出せなくなった」
突然ラフェムがそう説明した。
驚いて彼の方を見ると、ニヤリと笑っていた。
「な? そうだろ?」
「う、うん。そうなんだ」
釣られるがままにそう言った。
ルシエの顔色は、やっちゃったと思っていることが露骨にわかるほどの困惑に染まり、腕の拘束が緩む。
「そうなの? ご、ごめんね……」
顔を伏せ、心底申し訳なさそうにいつもより不安定な音域で謝った。そんなに落ち込まれると、こっちが悪いことをした気がしてくるなぁ。
「大丈夫だって、気にしてないから。ところでルシエは何の魔法を持ってるんだ?」
「ぼ、ぼくはね……」
恐る恐る、小さな手を水面から蓮の花のように出した。
「フィ・ヴァンエント」
気弱な詠唱と共に、彼の手の上に、小さなハリケーンが渦巻いた。
風は緑玉のリボンの如し。この目で視覚できる。
「すっげえ、これが風魔法か……。触ってもいいか?」
「すごい……? すごいでしょ! 触っていいよ」
……もう機嫌良くなってる。
ルシエは、また目を輝かせ、不思議な竜巻浮かぶ掌を、俺の方へと近付けた。
許可も貰ったし、慎重に渦巻きに手を差し込んてみた。正確な逆円錐だったそれは、回るろくろの上の粘土のように、ぐにゃりと大きく形を歪ませる。
指に感じる、見た目の小ささからは想像出来ない突風。本物の竜巻だ。濡れているからか、ちょっと手が冷える。
これが風魔法か。
「ありがとう、もう大丈夫」
風魔法が何たるかを理解し、俺は手を引っ込める。そしてすぐにあったかい湯の中へ退避させた。
妨害の無くなった渦は、自然の形に戻った後、ほどけるように霧散する。
ルシエは、両腕を大きく広げ、満面の笑みで立ち上がった。
「ぼくね、大きくなったら、パパみたいな手紙屋さんになるの! だからどんなところにでも紙飛行機を飛ばせるぐらい、強い魔法使いになれるように、頑張ってるんだ!」
大空を吹く風を身振り手振りで再現しながら、誇らしげに夢を語ると、腕を組み胸を張った。
その翠瞳に偽りは無く、強き態度に絶念は存在しない事を悟る。彼が職業に就くなど十年以上先の未来の事なのに、何故か鮮明に、彼の働く姿が視えた。
どんな困難があろうとも、絶対に夢を叶えるだろう。そう断言できる、そんな決意がルシエにはあった。
「君ならきっと、立派な手紙屋さんになれるよ。全力で頑張ってくれよな」
「ほんと? えへへ……」
そう伝えると、ルシエは茹だって熱った顔をますます紅くし、はにかみながらしゃがんだ。
目を不自然に背け、笑みを隠し切れない口角、仕切りに鼻を人差し指で擦る。カスィーの息子だけあって、照れる姿がとても可愛らしい。
「入るぞ」
「あ、オッケー」
いつの間にか洗い終えたラフェムが、湯船に入って来た。
七分目まであったお湯の笠はますます上昇して、ついに滝となり湯船から轟音を立てて流れ落ちた。
再びルシエは、二人の合間に挟まれる。
ニコニコ互いを見合ってから、表情をふにゃあと緩ませ、縁に顎を乗せた。
……可愛いなぁ、ああ、俺もこんな弟欲しかったなぁ。
同じく末っ子のラフェムは、ルシエを見て何を思っているのだろうか。
…………。
かすかに鼻を掠める、残留した石鹸の香り、熱い湯気。
霞む視界に、聴こえるは誰かの吐息と水の揺らぎ、生活音とはるか遠くで気まぐれに吹く風だけ。
今にも眠りに落ちそうな極楽に、体を休め、口も休めた。




