#22 その罪の重み
「オォォォォオン!!」
低い機械音の咆哮をあげると、レプトフィールは、二人の人間を迎え討たんと二足で立ち上がり、輝く爪を天空へ掲げる。
その大きく空いた腹を狙い、銀の刃を大きく奮って、水平切りを繰り出す。
だが、白銀の剣は、斜めから叩き付けるように降ろされた前足に弾き返された。
トカゲの行動はそれだけに留まらず、腕の勢いを回転に変換させ、ぐるぐる独楽の様に回ると、遠心力を長い長い尻尾に乗せて、ラフェムの追撃を吹っ飛ばし、ビリヤードのように俺へとぶつけて来た。
少年一人がまるまる衝突してくる重さは、チャリで轢かれたのとそうそう変わらない。大地に叩き付けられるまでの一瞬、心臓を直に突き飛ばされたかのように錯覚してしまった。
倒れてしまったものの、籠の中はぎちぎちに詰まっていたので、中身が落ちることはなかった。
あんなのが大量発生してるのかよ、ラスリィ? って地域マジやべえな。
というか、スクイラーといい、レプトといい、この世界の生物の知能は一体どれぐらいなのだろうか。
明らかに地球の一般的な動物より高いよな……。なんてことを考えながら、未だ衝撃の響く身体を起こした。
草を掻き分ける足音が聞こえ、己の痛みに集中していた脳を外部へ向ける。
トカゲは、鋭角が丁度真正面になるように頭をもたげ、弾丸の如きスピードで、俺の右足に狙いを定め突進してきていた。
このままでは食らうが、この体では完全に逃げられはしない。ならば……。
負けじと俺も、奴の角を斬り上げ、遠くに弾き飛ばそうと試みた。
下から突き上げるようなスイング。
手には空振りでは無いことを示す確かな重量が伝わり、剣の先端を追うように、光と紅の液が宙に舞う。
……だが、剣の直撃を受けたはずの黒い動物は、そこにはいない。
なんということだろう。
爪を大地に食い込ませ、踏ん張っていたのだ。
光が儚く溶けた時。
巻き込まれ空を飛んでいた、草の切れ端、黒い土、トカゲの血が自重で地面へと戻ってゆく。
その混沌の中で、彼の黄金に輝く瞳は、決して屈さぬ高潔を宿して、俺という一点を睨んでいた。
攻撃に逆らったことで、彼の鼻先から右角の生え目に架け、大きな裂傷が創られていたが、眼中を塞ぐ邪魔な流血以外に、痛がる事も恐れる事もせず、そもそも興味も抱いていなかった。
平べったい手の甲で、瞼に滴る鮮血を拭うと、渾身の鋼鉄の雄叫びを鳴らして飛び掛かる。
慌てて武器を奮い、喉笛に向かう凶器を弾くが、すぐに次の一振りがやってくる。
角を剣の如く操り、防がれ弾かれても直ぐ次の斬撃を喰らわそうとする様子は、さながら自己の血筋の存亡を懸けた一世一代の大決闘真っ只中の牡鹿、あるいは清い誇りの名誉を護るべく、全霊で勝負に挑む武士であった。
幾度となく火花を散らす。
悔しいけれども互角だと思われた攻めぎ合い。
しかし突如、その均衡は崩壊する。
トカゲは、目に見えてに疲労していた。
……そりゃあそうだろう。
俺は道具を使っているが、彼は生身だ。
大きさだって数倍以上違う。
それに、全身真っ黒なんだ。もしあのトカゲの身体構造が、地球での爬虫類と変わらないのならば……彼は変温動物。
自己の体温を持たない生き物なのだ。
この直接照りつける強い陽射しの中、光を吸収して熱にしてしまうその色で、汗さえかけないトカゲが平気でいられるだろうか?
無理であろう。
「……ラ、ガラララ……」
急激に弱り行く彼。
もう勝ち目は一切無いだろう。鳴き声は空気混じりに掠れ、角の動きは鈍くなると、やがて止まってしまった。
普通の動物なら、もう、……いや。人間に刃向かわれた時点で、尻尾を巻いて逃げ出す筈だろう。
でも、彼は死に瀕してさえ、諦めはしなかった。この状況でさえ、闘志を燃やしてこちらを凝視している。
逃げるということを知らない愚昧、ということではない。
彼は彼の意志で、逃走の選択肢を捨てている。
何故そこまでするのだろう? 仮に勝ったとして、得られるのは籠二つ分の野菜だけ。当然、飢え死にそうではない。
……‹彼が今欲しいものは、野菜ではない……?
その、得ようとするものの価値は…………。
トカゲは、思考に耽る俺に、一番最初に聴いたのと同じ叫び声をあげる。そして、俺の腹を掻っ切らんと飛び掛かってきた。
先程まで死にかけていたのは演技かと思うほどの脚力であった。
反応が遅れ、無様に喰らってしまう。
掻っ捌かれはしなかったが、開けていたコートから覗いていた、ラフェムの私服であるシャツが切り裂かれ、そこから翠の光が吹き出た。
今までで一番の痛み……トラックに轢かれて死んだ時が一番痛いと思うけど、あれは覚えてないからノーカン……。
感じたこともない、焼けるような痛みが神経を逆流する。
その激痛に俺の刻が凍り付いた。
トカゲは未だ滞空し、空気はその場に留まっている。
そして視界は、隅の方から現れた黒い靄に侵食されていった。
やばい、これって気絶の前触れか?
……負けてたまるか、クソが、クソが、クソが!!
「痛いんだよオラァア!」
心が折られそうな痛みを怒号ではぐらかしながら、苦しみを怒りに、怒りをパワーに置換させて、思い切りトカゲに刃をぶち込んだ。
切り口から、閃光と多量の血が吹き出した。
トカゲはキリモミ回転しながら天高く舞い上がり、やがて重力のままに落下し地べたへと叩きつけられた。
……受け身を取らず、生々しい音を鳴らして。
「やったか!?」
競り合いに入るタイミングを伺っていたラフェムは、一目散に、血の雨によって作られた赤の道をなぞって落下地点へと走り寄った。
あ、あの血の量は……。
冷たい汗が背を伝う。
恐る恐る、俺はラフェムの背を追った。
「…………」
青々しい緑の絨毯を、インクの黒と生命の紅が入り混じる死の補色が染めている。
むせ返るような、錆びた鉄の濃い臭いがその周囲を覆っていた。
電流を流されたように、小さく痙攣する後ろ足。
レプトフィールの喉は、もはや声を発することも出来ず、荒い空気の出入りの音だけが鳴っていた。
スッパリと裂かれた腹からは、血の他に、今までにも見た、攻撃を受けた時のあの光が流れ出て、煙の様に空へと登っていく。
傍から見れば美しくはあったものの、だからこそ不気味であった、この光の事をもう聞かずにはいられなかった。
……聞く前に、鞄の中の開きっぱなしの本を閉じる。
一身を余すとこなく染めていたインクはたちまちどこかに消え去って、血は元あるべき紅になった。
「なあ……この、この、光は、何なんだ……?」
「何って……誰が見ても、魂と命だろ?」
勝手に震える声を他所に、ラフェムは平然として答えた。
レプトフィールは、もう誰も見ていなかった。
ぼんやり虚ろとして、どこにも焦点を合わせようとしていない。
黄金の輝きも、まさに失われようとしている。
胸は今にも止まりそうなほどゆっくり、縮と膨を繰り返す。
ああ、彼は。
彼は死ぬんだ。
俺が殺したんだ。
トカゲは、ゆっくりと顔だけを持ち上げた。
口から、赤ワインを注いだグラスを急に傾けてたようにびちゃりと、ひとかたまりの血がこぼれた。
その間に、緩徐に瞬くと、虚無に向けていた視線を、俺の顔に動かす。
彼の瞳孔は小刻みに揺れ、瞼は非常に重そうだ。まるで眠気を耐える赤子に似ているまなこが、罪悪感を掻き立てていく。
じっと、黙って、俺だけを見続けるトカゲ。
……怨んでいるだろう、憎んでいるだろう。
見竦められ、顔を背けたいが、それすらも叶わぬほどの恐怖と罪悪感に体が凝り固まって動かなかった。
トカゲは…………。
……彼は、笑った。
嘲笑や、皮肉では無い。
友人のように、良きライバルのように、笑ったのだ……。
な、なんで?
困惑する俺を置いて、彼は力無く首を落とすと、肺の中身を全て出したかのような長い吐息の後に、ピクリとも動かなくなった。
僅かな光が、水草の気泡のように体からキラキラと天に登っていった。
…………死んだのだ。
先ほどまで確かにそこにあった生命が、霧散した。
「うわ! なんで泣いてるんだよ!?」
驚愕の声に、ビビッて隣を見た。
ラフェムは、声の通りの驚きの形相を浮かべていた。
ふと視線を彼の顔から下に動かすと、食事前の「いただきます」と同じく、胸の前で掌を合わせていた。
いつの間にか、ラフェムを挟む形で向こう側に座っているカスィーも同様に、祈るように手を合わせている。そして、不思議そうに俺の顔を眺めている。
……目の下を擦ってみると、指がずぶ濡れになった。やっと、自分が涙を流していることを理解した。
……泣いていることはわからなかったが、泣いているわけはわかる。
「俺が、おれがっ、レプトフィールの、命を奪ってしまった……」
訳を話そうとしても、勝手にしゃくりあがってしまって上手く話せない。
それに、声に出す事で、事実が改めて鮮明な形で俺に入ってきて、余計に涙腺を絞られる。
「殺した、殺したんだ、俺が。命を奪ったって、無くしたって、そう解ったら、辛くて、辛くて……」
戦いの最中、俺は死を意識してはいなかった。
最後の一撃は、下種な怒りに振り回されたものだった。
俺は最低な奴だ……。
ラフェムは無言で、俺の言葉をきちんと聞き届けると、抜け殻と化したその爬虫類を掬うように、手が血で穢れることも気に留めず持ちあげた。
下り風は、どんな事があろうとも変わらずに流れ続ける。
その薫風で、ラフェムの髪は穏やかになびいていた。
「そうか……直接、命を奪ったのは初めてか」
彼はやをらに空を見上げた。
角膜に映る蒼然の空。その奥に煌めく炎の虹彩は、何かを思い出しているのか、いつもと比べて淀んでいた。
「……あまり気を病むな。そもそも、動物は他の生き物の命を貰わなければ生きれないからな」
「食べ物だって、君の食べる皿に切り揃えられて乗った肉だって、そもそもはああやって大地を駆け抜けていた生き物なんだ。植物だって生きてる」
「仕方が無いんだよ。意味があって、殺されるんだ…………」
普遍的な答案であったが、狩猟をする者としての言葉は、食物連鎖の枠から外れて生きる現代人の、ただの言い訳の痴れ言とは重みが違った。
「…………普通は」
彼は、振り絞るように付け足した。
その悲しげな一言に、彼の家族を、そしてドラゴンと化け物の事を想起させられた。
俺は言葉を返せなかった。
「……まあ、悲しむ事は悪くは思わない、むしろその感情を忘れないでほしい。そのまま、命を奪っているという感覚を失わないでほしい。トカゲもさ、君との死闘を楽しんでたと思うよ、だから落ち着いてくれ」
ラフェムは俯き、目線をレプトフィールに移した。
致命傷を受けて死んだとは思えないほど安らかに眠るトカゲ。
黙然と彼を見つめたあと、おもむろにカスィーの方を向いた。
「カスィーさん、水魔法式血抜きって、出来ますか?」
「ええ。でも入れ物は?」
「水筒の中身飲み干したんで、そこに。もうだいぶ流出してるから、多分足りる……はず」
ラフェムの腰の瓢箪が、レーザーに焼かれたように飲み口から数センチ下をスッパリと焼き切られる。
ずり落ちた飲み口は、地面に達する前に炎に包まれ灰となり、風に流されていった。
カスィーは腰から水筒を取り外し左手に持つと、慣れた手付きでトカゲの首をトカゲ自身の爪で掻っ捌き、尻尾を握って逆さ吊りにした。
突如その首筋の切れ込みから透明な水が飛び出して、左手の容器に注がれる。それを追って血が、孔の空いてしまった水風船の様に流れ始めた。
数秒間、間断なく流れた後、徐々に勢いを失い曲線が直線へと変わる。
そして、最後にまた透明な水が姿を現すと、もう何も出てこなくなった。
彼女はそっと、血色の無くなった薄暗いトカゲをラフェムの腕の中に戻した。
「……それじゃあ、アトゥールに行こうか」
二人は血塗れの手を粗雑にコートで拭いてしまうと、黄土色の獣道へ戻って行った。
ふと伸びる影に気付いて、その正反対を見る。
まだ空は青を保ってはいるが、太陽は昼間という役目を終えて、海に墜ちようとしていた。
往復の時間を考えると、ビリジワンに着く前に、日は姿を消しているかもしれない。街灯もないここで、果たして道が見えるだろうか。
……そして、寒さに俺たちは耐えられるのだろうか。
「何ぼけっとしてるんだ。置いていくぞぉ」
背後から、ぼやけた掛け声が聴こえてきた。
振り返ると、ラフェムは、ギリギリ表情がわかるぐらいに遠く離れた場所で、大きく手を振っている。
「ちょ、歩くのが速いよ、置いてかないでくれ!」
目に溜まったままだった涙を振り払い、急いで二人の背を追った。
詫び投稿です




