#18 留守番の火事未遂
…………熱中に、ベルの音が水を差す。
「ラフェムー、ラフェム? いるわよね?」
呼び出しの鐘の残音に混ざって発せられた、壁に遮られて籠もってもなお快活を感じさせる、聞き覚えのある女性の声。
これはクアのものだ。
もう何度目かわからぬ将棋は、まだ中盤だったけれど、ラフェムは「すまん」と、申し訳なさそうな表情をしながら、両手を顔の前で合わせた。
こっちの世界でも謝るときはそうなんだなぁ。なんて思いながら、壁に掛け並べられた黒いダウンジャケットを全て纏めて鷲掴みにし、それを着ながら玄関へ小走りする彼の後ろについて行った。
玄関の戸を開いた先に立っていた彼女は、長い水色の髪を結い、赤を基にした色鮮やかで立派な花と、おそらく米のニッチを占めている、あの丸い豆の入っているであろう鞘付きの植物を混合させた花束を両手に携えている。
まるでプロポーズでもしに来たような風貌だが、表情は正反対に暗く、恥ずかしさや緊張、悶えとかが一切無い。どちらかというと葬式場に相応しいものであった。
後ろの空は星明りの一筋もなく真っ暗。雨はいつの間にか止んでいて、無音の世界には、ひんやりと湿った空気が取り巻いていた。
「ああ…………もう、そんな時間だったか……」
俺より一歩前にいるから、彼の表情は全くもって臨めないけれど、それでも今どんな顔をしているか容易く想像出来る程の、酷く悲しげ声でそう呟いた。
そして言い終わりと同時に首をもたげ、黙り込んでしまった。先程まで、あんな楽しく将棋をしていたのに。一体なんだろう?
そのことを聞こうと、辛そうな彼に声を掛けるタイミングを窺っていると、クアが先に口を開いた。
「ショーセはどうするの? 連れて行くの?」
俺の方を見ながらそう聞く。遅れてラフェムも振り向いて、俺の事をじっと見つめた。
クアの潤む青い目からも、ラフェムの風前の燈火に似た赤い目からも、重い苦痛が滲んでいる。
ラフェムは噤んだまま、寡黙を貫いているが、彼の心の中では必死に忙しい審議をしているのだろう。
時折顎に指を添えながら顔を傾げて、フローリングの節を見たり、後ろの空を見上げたりと、非常に悩んでいる素振りを見せる。
開けっ放しにされている玄関ドアの向こう、黒曜の闇に冷やされた大気がゆっくりと、部屋の暖を蝕むように地を張って侵略してくる。
外と内の温度差が無くなってしまうんじゃないかと心配するぐらいの長考の末に、ラフェムは申し訳なさそうに頬を掻き、目を逸しながら口を開けた。
「……ごめん、ショーセ。あの土地には、まだエイポンとクアの家族しか行かせたことないんだ。決して、君を信用してないって訳じゃないんだけど、あの、その、でも、でも…………。……待っててくれないか、すぐ帰ってくるから」
「あ……ああ。別に気にしないよ、大丈夫」
そんな、謝らなくてもいいのに。
ラフェムが連れて行くか行かないかを迷ってる間に、俺も彼らがこれから行う習慣は何かを思考していた、そして答案を出せた。
墓参りだ。
彼と彼女は今から墓参りに行くのだ、家族の誰かか、それとも全員の。
花と豆は、眠る者へのお供え物だろう。
二人の悲しみは、一家の災いの記憶から形成されたのだ。
姉の部屋のプレートにさえ触られるのを拒んだラフェムが、墓場に俺という出会ったばかりの他人を近付けるのを、快く思わないのも当然だろう。
「じゃあ……お姉さん待ってるだろうし、ワタシ達もう行くわね。留守番よろしく、ショーセ」
俺の推理は、後を追って告げられたクアの声で真実と化した。
「じゃあ、よろしくな……」
重苦しく暗い二人の面は、ゆっくりと閉ざされた扉に遮られた。そして金具と鍵の無機質な鉄音が短く響く。
さっきまでの煩い雨のせいだろうか? 鼓膜を突然奪われたかと猜疑するほどに、家は気味悪いほど静かになってしまった。
それを契機に、夏なのに極端な冷たい大気、一寸先も見えなかった真っ暗闇の向こう、自分以外の生気が無いだだっ広い空虚……何もかもが怖くなった。さっさと二階へ逃げ帰り、一応部屋の戸を閉める。
……うん、うん、わかってる。幽霊なんていないさ。
いや、一応三人が死んだ家だし……。でも、もし出てきたとしても、あのラフェムの血縁者なんだから、そんな呪うようなことはしないだろ? しないよね? 理解してるさ、分かってるけどさ……。この家で、夜一人ぼっちはちょっと怖いわ。
開けっ放しのドアからひょっこり顔を見せてきたらとか、……やめよう! やめよう!
恐怖の妄想から逃れられる、何か気を逸らせる優秀な暇潰しが無いか、部屋をグルグル周って探し始めた。
穴開きの本棚の小難しそうな本はそもそも触っても良いのか解らないし、置かれたままの将棋と一人芝居で戯れる気分でもない。
この世界にゲーム機とかスマホは無いし、風呂は怖いしそもそも俺は湯を沸かせられない。
だからって寝たら、……まあこの世界に盗みを働くような奴は居るようには思えないけれども、留守番失格だし。
うーーーーん、どうしようかな。
ふと、机の上に立て掛けられた白い鞄が視界に入った。
あれは、この世界で目を覚ました時に何故か持っていたショルダーバッグだ。
確か、中には万年筆、消しゴムと中身の無い本が入ってたっけ、あと余った一枚の銅貨。
そそくさと席につく。
なんとなく本を取り出し、パラパラとめくってみた。
…………やはりどこのページにも、文字のもさえ、罫線さえも書かれていない。
まるで小学生の時に持つような自由帳の、大容量お買い得バージョンみたいじゃないか。
目に優しい若干クリーム色のマットな紙は、ペン先で破れないようにか少々厚みがあって丈夫。厚さは辞書レベルだけど、ページ数自体はそれほど無いだろう。多分百も無いんじゃないか?
弄っているうちに、本があまりにも美しすぎるので、筆を思う存分走らせたい衝動に駆られてきた。
一冊しかないこれを、そんな情動で汚すのはいささか勿体無い気がするけれど…………そんな保守的な思考など、いてもたってもいられない俺のストッパーになりやしなかった。
……そうだ、どうせならメモ帳として、丁寧に、綺麗に、大切に使おうかな。
そんなことを考える俺の手は、既に万年筆を掴んでいた。高級感のある漆黒のボディに、緑メッキのクリップがオシャレなペンだ。その尖端を、元々机に置かれていたインクの湖に浸す。
軸がブレないように、字を間違えないように。
精神を集中させるべく、目を閉じ大きく息を吸って、そして吐く。
「よし……」
書くことはもう決めた。
いつか来る日のために、ラフェムから教えて貰った魔法の詠唱を書き綴るのだ。
忘れないように、心に刻むように。
栄華な魔法を使いこなせる未来を夢想し、初めてギルドに赴いた日のことを、あたかも幼少期の思い出かのごとく追憶しながら、いよいよ白紙にインクの跡を付けることにしま。
『エン・ジャロフラミア』
一文字、一文字に、今まで間近で見てきたラフェムの、熱く優しく強い炎の事を想いながらそう綴り、最後の払いで、ペンを紙から離した。
結構上手……
!?
「うわっあああああっ!?」
突然の閃光に目が眩むと同時に、正体不明の物体が勢い良く壁に叩きつけられた爆音が耳を劈く。
爆風のせいなのか、俺がビビって思い切り跳ね上がったせいなのかはさておき、椅子が後ろに倒れてしまい、転げ落ちた。
なんだ?! なんだ!? なんなんだ!!?
見えぬ目を擦り、無理矢理見た滲む世界は、何かがキラキラ輝いていた。
もう一度目を瞑って擦り、見直してみる。
次第にピントが合って鮮明になっていく。机を輝かせるものが、はっきりと確認できた。
「火か……。火……!? な、な、なんで……? ……というか、ヤバい! 火事になる!!」
机に散乱した小さな火は木を食い、今にも増長し集って豪炎になろうとしている。
な、なんで? どうしよう、どうしよう!
やばいよな?
不味いよ!
水は!? 水はどこにある!?
おばけよりも泥棒よりも不味いことになっちゃったよ!
水、風呂場まで取りに行く? でもこの家、桶とかバケツあったか? そもそもここから目を離して良いのか? 戻ってきたら既に部屋全部燃えてるとかなってたら……。
やばい、やばい、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!!
動転に動転を重ねた俺に出来ることは何もない!
助けてくれ、ラフェム! なんでこんなことに、どうしてこんな……留守番失格だ、ごめんなさい、ごめんなさい……。
本に炎魔法の詠唱を書いたからこうなったのか? どういう理屈だよ……。
…………書いたから?
じゃあもしかすれば……。
伏していた本を急いで拾い上げ、丁寧綺麗大切の自戒を二行目で放棄し、紙が破れそうなのも配慮せず、あの火を消せるような水が出てきてくれないかと願いながら、乱雑な字で『スイ・ウォロハイド』と書き殴った。
汚い濁点を書き終わったその刹那、壁に何かが衝突する音が響く。
その正体は、俺の目の前から飛び出した水の塊。豪速球で燃える机にぶつかり、水風船のように弾け飛んだのだった。
「あ、あああ、ああ…………」
火は消えた。消えたけど。
爆発した飛沫は、俺の体に、ベッドに、壁に、全てに容赦なく被さった。
大雨の日の屋根のように、机の縁からは水がボタボタと滝のように流れ落ちている。
炎なのか水なのかに吹き飛ばされた備え付けの紙は部屋に散乱し、ペンとインク瓶は埋もれたのか見当たらない。
火を消せた安堵と、どうしようも無い水浸しの悲劇。あまりにも怒涛に訪れた強すぎる刺激に、力が抜け立てなくなった。
ああ、酷い有り様で言葉も涙も出ねえ。
というか、タオルどこにあるんだ?
ああ、これもうなにをすればいいんだ?
やらないといけないんだけど……やらなければならないのはわかっているけれど頭が真っ白で動けない。
応急措置として、自分の布団を机滝の落下地点に敷いておく。
そして恐怖の本を閉じ、正座をしラフェムが帰るまで、途方に暮れていることとした。




