#17 将棋とイエロクと虹流星
至って普通のじゃんけんに、普通に負けた俺は後攻となった。
いよいよ真剣勝負が開幕する。
ラフェムは瞬いた。
それを契機に、眠そうにとろけていた眼には闘志の炎が灯され、昨日の競り合いと同じ熱い眼差しへと変わる。
辺りの空気が一気に張り詰めた。彼にとってはこの戦いも、昨日の闘争と同じものだという、勝負事に対する真摯な想いが伝わってきた。
「よし、やるか」
ベッドの上であぐらをかいて、これから戦場となる板を見下ろしながら、ぐるぐると腕を回す。
そして手始めに、俺から見て右から四番目の剣──歩を前へと進ませた。
……意図がわからない、まあ将棋はあまり詳しくないから仕方がないのだけど。
俺の番、すぐに角を戦場に駆り出せるよう、角の右斜め前の歩を動かした。
次に彼は一番右端の歩を進める。
よし、俺は早速角を相手の陣地へと…………初手で一歩進んでいたあの駒に衝突した。なるほど、あれはクッションだったのか。
……しかし、何故地球の遊びがここに、異世界にあるのだろう?
地球なんかとは一寸も関係無さそうなこの世界。
全く同じルール、同じ姿のゲームが偶然現れたのか?
いや、無い。
どう考えても誰かが持ち込んだようにしか思えない。
でも地球に、知的生命体のいる星に人が降り立った、なんて記録は一切合切無かったはずだ、公式にも流布にも。
そこはかとない違和感と好奇心が、俺にこのゲームの始まりを聞けと唆す。
俺は歩を前進させながら、腕を組んで盤を凝視しているラフェムに問いかけた。
「……あのさ、この将棋、とチェスの歴史ってどんな感じなんだ? 誰か作ったとか……」
「ああ、この遊びの始まりはな……」
ラフェムは一旦言葉を切る。迷いなく歩を持ち上げると、一升前へ歩ませて、パチリと鳴らした。
その透き通った惚れ惚れする打ち付け音は、たちまち雨粒のノイズに飲み込まれて消えていく。
さあ、次の手をどうぞ。
さもそう言っているかのような、自信ありげにひっそり燃える赤い目線をこちらに向けながら、彼は続きを述べ始めた。
「将棋とチェス、あとじゃんけんとか……色々な事は、イエロクに墜ちた虹色の流れ星が伝えたって言われてる。でもさ、流れ星は喋んないよな。だから神話にしか過ぎないんだけど」
やれやれ、非現実的な魔法使いが何を言うやら。
こんな不思議な世界なら流れ星の一つや二つ声ぐらいあげそうだと思うんだけど……。
そんな事よりも、聞き慣れぬ単語の出現の方が今の俺には大事であった。
この世界で知らぬは一生の恥どころか断罪だ、続けざまに彼に聞く。
「イエロクって?」
「イエロクっていうのは、ここから遥か北にある諸島の名さ。千五百前にその流星から伝わった文化を特に愛し、尊び崇めている地域だ。だから何処と無く懐かしさがありつつも、他とは全く違う新しい雰囲気の町なんだ」
「なるほど、いわゆる異国情緒という……」
「え? は? イコク? え、な……?」
部屋の空気が歪む。何気ない呟きだったのに、ラフェムを酷く困惑させてしまった。
どうやら、この世界には国という概念は無いみたいだ。
教えて貰っておいてこの対応は酷いと思うが、彼にこの単語を説明するわけにはいかない。
「あっ、ご、ごめん、言い間違えた。えーと、なんて言おうとしたんだっけな、うん、言葉が思い出せないや! すまん忘れてくれ!」
「そ……そう」
勘付かれてはまずいから、内心慌てつつも外見は気楽を装いながら、それらしい理由で流しながら、駒を打った。彼は深追いすることはなく、素直に意識を将棋に戻した。
……イエロクかあ。
もしかしたら異世界転生名物の、江戸ぐらいの日本そっくりな島だったりするのかな。流石にそこまでは無いかな。
流星……俺が推理するに、地球人がまれーに宇宙に飛ばしてるメッセージとかレコードの類だろうか。
これなら堕ちてきた物が喋るのもわかるし、地球の文化の一部であるゲームが伝えられたのもわかる。
……が、この世界の人間は地球の言語を解読できるのか? 俺は勝手に翻訳されてるからわかるけど……。
まあ、神がいるぐらいなんだ、その点に関してはなんか凄い力でも働いたんだろう。
でも宇宙へ飛ばしたメッセージに将棋とかじゃんけんとか、そんなピンポイントなものが入ってるなんて話は聞いたことない気がするんだけど……。
「流れ星……流れ星……!? そうだ、そうだった、僕は……喋る白い流れ星なら……」
ふと、何か嫌なことを思い出したような低い声が、俺の妄想推理を叩き切った。
顔をあげてみると、目の焔は既に淀んだ憎悪へと換わっている。
目線自体は将棋盤に向けられてはいたものの、まるで俺の事を睨み付けているかのようで、少々身が竦む。
ラフェムの番だが、その指は胡座の膝の上で強く握り締められたままだ。
しばらく彼は口を閉ざしたまま、じっと俺の翠王を見つめていた。
照明の炎は荒波のように揺らぎ、雨は暴漢の如く手荒くガラスを殴りつけている。
彼の唇は震えていた。まるで息を掠め取られた病人のように、恐怖に支配された弱者のように。
伝えようとする意思を、声に具現出来ていない。
いや、非常に小さく何か話しているが雑音に掻き消されていて俺の耳に届いていないだけか?
彼は強く口角に力を入れて、ぐっと震えを押さえた。
そして眠りに落ちた人と同等の、非常にゆっくりな深呼吸をする。
深呼吸が済んだあと、ますます掌に力を込め、一度ピクリと震わせてから、重い口を開いた。
「なあ……ショーセ、いいか? 流れ星を信じてはいけない。あれは……〝人類を破滅に導く〟」
俺に忠告するように、そしてラフェム自身が己に言い聞かせるように言う。
変に力の入った震え声は、今にも激昂しそうでありながら、泣き崩れそうでもあった。
言い切った彼はもう一度深呼吸をし、むせたように咳払いし、声を整える。
「頼む、気を付けろよ」
いつも通りとは少し違う、懸念の色濃く入り交じった語気で、一言そう放った。
そして、ずっと握り締められていた彼の左手はとうとう開かれ、トランプのダイヤの様なものを模った金を、王の前へと打った。
俺はその一手を確認し、再びラフェムの表情を目視する。
もう既に、白い流れ星の話になる前の、勝負へと真剣に向き合う迷いのない純潔に戻っていた。先程までの時間は、あたかも夢であったのかと疑う程の素早い切り替えだった。
でも。ほんの少しだけど、彼の王に宿った炎は不安定に震え、屋根の灯火は歪んでいた。先程の出来事は事実であったと、唯一証明してくれているようなものだった。
「……〝達人〟の人はな……最初はどうする、この手を使われたらこうするっていう定石? が決まってるらしいんだけど……まあ僕たちは知らないから知らないなりに適当に遊んでるんだ、ショーセはどう? 達人の感覚とかある?」
「あー、プロの感覚、は無いな……。ラフェムと同じ感じだよ、戦法とか無しで適当に動かしてる」
「そうか! じゃあ互角の勝負を楽しめるな」
外に降り注ぐ無数の雨粒が、時折風に煽られては窓を叩く。
そんな気紛れなノックと唸り声、そして変わらぬノイズは、時を忘れるほどに俺たちを熱中させる背景音として恐ろしく適任であった。
ラフェムのくせ毛をさらにうねらせる程に鬱々しい湿気も、長くて一瞬だった不穏な大気も、行動しようとする気力さえ殺ぐ倦怠感も忘れて、ひたすらに長考し、駒を打つ。
「あっ!?」
だいぶ互いの手駒の減った頃。
ラフェムの勇ましい地竜……角が俺の陣地に侵入してきた。
大理石の純白から、轟々と燃え盛る赤へと染まった地竜を止められる駒は、今や存在しなかった。
紅き竜はその強靭な四肢で、次々と俺の兵士をなぎ倒し、遂には王を拐ってしまう。
「やった〜、僕の勝ちだ」
ラフェムは歓喜の笑みを浮かべながら翠王をひょいと摘まんで、上半身だけを愉快に小躍りさせた。
気が抜けたのか、目はとろんとして、緊張を失い、つい数十秒前まで競っていた戦士とは到底思えない風貌に戻っている。
……。
…………このまま負けたまま終わり? …………むむむ……。
「もう一回やろう! もう一回!」
「ああ、いいぞ、やろうやろう」
情けない意気地な叫びに、ラフェムは乗り気で答え、駒を並べ始めた。
改めて思う。自分は負けず嫌いだと。また、彼も同等の負けず嫌いであると。
……そして、その自覚は、過去の断片に触れるきっかけとなる。
こうやって〝もう一回〟と声をあげたのは初めてではないし、指折り数えられる程度でさえない。
でも……誰かとゲームで遊ぶのは、何年ぶりだっただろうか?
……ああ。もう相手もいないと触れずに来たのに、意外と覚えているものなんだな。
………………。
相手がいなくなったのは、友人に裏切られたから。
それだけ思い出せた。
……怖い、何で俺は捨てられたんだ?
誰に、突き放されたんだ?
それで……俺はどう生きてきたんだ?
ラフェムの紅い王を討ち取った。喜ぶべき勝利なのに、心が躍らない。
……もういい。過去のことは忘れよう。
この平和な時間の中に、そんな情報はいらない。
案の定、もう一回やろうと懇願する彼を言い草に、再び争いを始めた。
全身全霊を闘いに溶け込ませ、気分を損なう過去を忘れよう、そう企んで。
黙々と、真剣に純白の、そして時たま赤や緑に染まる兵を打ち続ける。
パチン、パチン、パチン。
静かな勇者たちの前進が織りなす、軽やかなメロディ。
降雨の音、暖かな光、長い時間。
優しい周りに癒されて、次第に嫌な記憶はぼやけていき、気分も穏やかに納まってきた。
……今のところ勝敗はおおよそ五分五分。
俺が負ければ俺はもう一回と意地を張り、俺が勝てばラフェムがもう一度やろうと同じように躍起になる。
どうしても互いに勝ち越そうとするから、終わるタイミングが産まれない。
もう一回、もう一度、もう何回勝負したのかわからなくなった。
でも飽きは全く来ない。
「いい顔してるじゃないか」
ふと、彼が感心したかのように言った。
声につられて盤から目を離す。
自信と誇りに溢れる不敵な笑顔を浮かべ、再び闘志を燃やす戦士の面持ちに変わっていた彼の目に、同じように翡翠の炎を灯す俺が映っていた。
「でも、少し寂しそうだな」
ラフェムは小声で付け足した。
そして俺の王を掻っ攫った。
だけど、そう言う君だって、奥深くに悲哀が渦巻いているじゃないか。
……俺たちは、もしかしたらこの争いによって、身の深淵にある恐れから逃げ出そうとしているのかもしれない。
でも……それでもいいや。
楽しめることは楽しまなきゃね。




