さん、緑の都-3
呆気に取られた。茶々は食いつくように露草を見ると、彼の両肩を掴む。
「土蜘蛛! その男、土蜘蛛と名乗ったの?」
息を詰めるような剣幕で問い詰められた露草は、返って驚いたように目を瞬かせた。
「うん。もしかして、茶々の知り合いかい?」
訊かれて、茶々は惑う。
「え、嫌……」
最初の勢いはどうしたのか、茶々は逃げるように視線を逸らすと、露草の肩から手を退けた。ゆっくりと首を横に振る。
「何でもないわ」
四年前、土蜘蛛が起こした辻斬りと、よく似た事件が起こっている。土蜘蛛が京に戻って来たと考えるのが自然な流れだ。
「土蜘蛛…」
零すように、茶々は呻いた。
「露草、その人とはよく会うの?」
「時折…かな。あの人が、その屋敷に来る時だけだよ。帰る時は必ずこの道を通るんだ。僕がいるお屋敷はもう少し川の下手にあるから、姿を見つけては道に出るんだけれど…」
そこまで云って、露草は切なげに微笑んだ。
「………やっぱり、碌な人じゃないんだな」
露草の初恋相手が、土蜘蛛。
茶々は形容し難いような黒い鉛が、ずっしりと胸の中に落ちていくのを感じる。
あの時の茶々の気持ちが分かった、と、微笑んだ彼に告げる言葉が見つからなくて、茶々はしどろもどろと視線を泳がせた。何か云おうと開いた口から、声が出ない。
そんな茶々を見かねたように、
「いいんだ。茶々が気に病む事は何もない」
露草は淡く微笑んだ。
ロウソクの上で揺れる灯のように、芯強く、緩やかな笑み。
シャンと伸ばした背にかかった黒髪が、風と遊ぶように靡いた。
「今更彼の素性を知ったところで、僕の気持ちは変わらないから」
「露草…」
「茶々。この京には、一体いくらの人々が住んでいるんだろう? その人たちが一々味わう幸せも、悲しみも、僕にとってはどうでもいい事だ。 ……例えそれが、誰かの死であろうとも」
茶々の瞳に映った、露草の横顔。その瞳には揺ぎ無い想いが宿っているように、彼は真っ直ぐと夜の都を見据えていた。
「せめて大切な人が幸せであれば、それでいいんだ。僕は」
露草の姿が告げている。
例え今ここで、辻斬り犯が彼かも知れないと告げた所で、露草の想いは変わらない事も、会うなと云った所で意思が揺るがない事も。
京の人々を敵に回しても――その中に茶々がいようと、露草は迷う事なく土蜘蛛の幸せを願うと云う。
茶々は胸の前でギュッと手を握ると、唇を噛み締めた。
「何で、………何でそんな風に誰かを愛せるの? 露草、あたしたちは知っているはずよ。他人がどれ程浅ましい生き物か、いい気になっているだけの生き物か、愛すべき価値なんてない事」
「なら茶々は、どうして影の人を愛したの?」
「あの頃は信じてた!」
静寂を、茶々の金切り声が引き裂いた。
茶々は露草の腕を掴むと、身を乗り出すようにして叫ぶ。
「何もかもを無条件に信じてた! 愛してた! でも、違った! 他人にあたしの世界は理解出来ない! 最後は皆わたしを裏切った! だからあたしは、もう二度と他人を愛さないと誓ったの!」
すがりつくような茶々を、露草は見下ろす。その顔から微笑みが絶える事はない。
「優しすぎるんだよ、茶々は」
まるで全てを受け入れるように、彼は笑う。
「僕は端から、全てに絶望できるほど、この世界を愛していない。僕にとっては、この世の中の大半がどうでもいいんだ。愛する事も、嫌う事も、面倒くさいくらいだ。 ……そんな僕でも、大切な者が少しはある」
露草の瞳に、戸惑う茶々が映る。
ガラス玉のような茶色い瞳は、澄んだ様に美しい。
「茶々、僕は今、すごく幸せだ」
その瞳に、じんわりと涙が滲む。持ち上がった両の唇が、小刻みに震える。
「例え彼が何者であったとしても。彼の眼中に、僕が入れない事なんて分かりきっていても……それでも…っ」
ぼろりと、涙が落ちる。次いで、ぼろぼろと大粒の涙が頬を濡らした。
茶々は、泣きじゃくる露草の姿を、呆然と見つめている。
なんて美しい泣き顔なのだろう。
なんて強い生き物なのだろう。
胸が、痛い。
「あの人と会う刻を心待ちにして過ごす時間が、嬉しい。初めて、生きる事を幸せだと思えたよ。 …僕は、この狂おしいくらい切なくて、愛しい世界を、捨てきれない…!」
「露草ぁ…っ」
茶々は上から覆い被さるようにして露草を抱きしめた。支えきれずに、二人して夜露に濡れた草叢に倒れこむ。
「馬鹿! ばか、バカ、馬鹿、バカ!」
罵りながら、彼の肩を叩く。
「何で他人を愛したの! 何で…、なんで、好きになったりしたの」
声がつかえて、ひぅ、と茶々はしゃくりあげた。目頭が熱い。つんと鼻が痛くなる。
「露草のばかぁ!」
うわーん、と、子ども染みた泣き声をあげる茶々を見て、露草は、泣き顔のまま微笑んだ。しっとりと濡れた袖をあげて、茶々を抱きしめる。
「茶々なんだよ。 ……僕にこの気持ちを教えてくれたのは、茶々なんだ」
「知らない、そんなの、知らない!」
「知らなくないよ。影の人の事を話す時、茶々は本当に幸せそうだったじゃないか。彼が都を離れなければならないと知った時、泣きながらも、気丈に見送る事を決意したじゃないか。 ……僕の中で幼かった茶々は、あの時変わった。茶々は綺麗で、格好良かったよ」
「違う!」
「違わない。茶々、逃げちゃだめだよ。他人を愛してしまうんじゃない。好きになってしまうんじゃない。好きだから、愛してしまうんだ。例えそれがどんな茨道だったとしても、この気持ちはどうしようもない。否定するより、受け入れた方がずっと楽だよ」
つゆくさ、と、呼ぶ声が掠れる。
彼は全部知っている。茶々がどれ程神威を愛していたか。傍に居たいと願っていたか。叶わぬ願いと知った時、たまらぬ想いに焦がれたか。
彼は恐らく分かっている。茶々が露草に会いに来た訳を。
酷い奴だと云って欲しかった。今更会いに来たなんて、勝手な奴だ。尻蹴飛ばして追い出してやれと云ってくれれば、再び惹かれ始めているこの想いを、誤魔化す事が出来ると思った。
だのに、云ってくれない。それ所か、茶々のおかげで他人を愛せる、なんて。
茶々は下唇を噛み締めた。
露草の手が、あやすように茶々の背中を撫ぜる。
「分かっているんだろう? 茶々」
「…」
「本当は」
「……」
「もう一度会った時から、影の人に恋をしている事」
見たくない事実を突きつけられたように、茶々が瞳を大きく見開く。
何か言い返そうと開いた唇が、動かない。
もう一度泣きそうに表情を歪めた彼女は、ぎゅぅと瞳を瞑って、叫んだ。
「分かってるわよ! 分かってる! 初めは昔と違う姿を見て、絶望してやろうと思ったわ! でも、出来なかった! あんなに優しかったのに、すごく意地悪な物言いをするようになったわ、とか、昔の雅な仕草とは違うわ、とか、気に入らない所を一々数えてやったのよ! それなのに、なのに…っ」
箍が外れたように、押し込めていたものが一気に溢れ出す。
口の端を針で引っ掛けたように笑う、あの嫌味な笑顔。
不意に茶々を射抜く、あの切なげな瞳。
ボサボサな髪に手を入れて、あくびを噛み殺している、だらしのない姿。
吹雪から視線を移す時の、緩やかな流れ。
嗚呼、思い出す度、心臓が千切れそうに痛む。
「どうして嫌いになれないのっ!」
云って、露草の胸に顔を埋めて泣きじゃくる茶々を、彼はその背中に手を回して抱きしめた。耳元に寄せるようにして、近づけた唇で囁く。
「茶々、きっとそれが、恋なんだ」
おずおずと触れた露草の背中は、夜露に濡れていた。今更ながら、風邪を引くんじゃないかしらと心配になる。
それでも、露草から漂う甘い香りに吸い寄せられるように、茶々は平たい胸に額を付けた。
ふふ、と、どちらからともなく笑顔が零れる。
「露草がいてくれて、良かった」
「僕も…茶々がいてくれて、本当に良かったよ。茶々は僕の、大切な人だから」
「それはもちろん、土蜘蛛よりも…よね?」
「まさか」
「露草、ひどーい」
茶々は膨れ面を返す。
あれ程聞く事が怖かった言葉を前にしても、もう怯えずとも良い。
茶々がいてくれて良かったと、露草は云ってくれたから。
「あはは。拗ねないでよ、茶々。あの人を想う気持ちと、茶々を想う気持ちは全然別物なんだ。無理矢理比べれば、の話。茶々だってそうだろ?」
「え?」
「とぼけないの。影の人が好きなんだろう?」
窺うように顔を上げれば、悪戯小僧のような顔をした露草と瞳があった。
普段、大人染みたすまし顔をしているだけに、こんな顔で見つめられると、なお更罰が悪い気持ちになる。
茶々は、むむー、と低く唸り声を上げると、口先を尖らせた。
「よほどあたしに好きと云わせたいのね、露草は」
「うーん。乙女な恋話を出来る相手が他にいないからね、僕は」
そう云いながら困ったように笑われては、立つ瀬がない。
茶々はゴニョゴニョと濁すように視線を逸らすと、河辺を見つめた。
魚がぴしゃりと跳ねる。
対岸に咲いた花が、露を落とした。
今宵は、霧が出ない。
美しい夜の京を見ながら、
「……………好きよ」
呟いた茶々は、露草の胸の中で、人知れず笑みを浮かべた。
「神威が好き」
絶対云わないけどね、と、付け足すのは忘れない。
露草の云う通り、認めるだけで、気持ちが随分と穏やかになる。荒れ狂っていた波が、落ち着きを取り戻して行くようだ。
云う必要はない。
神威が変わってしまったように、茶々も変わった。
素直で愛らしい、純真無垢な少女ではない。神威が愛そうとしてくれた茶々は、もういない。
家柄にしてもそうだ。
神威は公ではないとはいえ、帝と関わりがある。
世間的にも、藤原の家を捨てたと同然の茶々が、懸想していい相手ではない。
このまま、表面上は今のまま、茶々は神威を嫌っている振りをして、山荘から追い出せばいいのだ。そうすれば、神威と茶々を繋ぐものはまた無くなる。
自分の気持ちを認めなくて済むよう、彼を追い出そうとしていた時より、確固たる思いが胸に宿る。
そうだ。神威は茶々と関わるべきではない。
他人を恨み、妖と生きる事を決めた茶々と、公家と呼ぶ身分の彼とは、もう住む世界が違う。
認めた上で、別れよう。
そうすればきっと、ほんの少しだけ、あの頃の茶々に戻れる気がした。
誰かの幸せを、一生懸命に願えていたあの頃に…。
「ありがとう、露草」
「うん」
「――おや、露草じゃないか」
土手の方から声が聞こえて、露草はふと顔を上げた。
穏やかに名を呼ぶ。
「ああ、統領」
統領、の名に茶々も土手へと目を向けた。
土手から河辺を見下ろしている、四人の男女。その中心に立っていた、目を奪う程の絶世の美女が、フフンと嘲笑うように唇を持ち上げて笑った。
「こんな所で逢引とは、洒落てないね」
彼が、統領。
夜闇に映える艶やかなその姿に、茶々は息を詰めるようにして彼を見つめた。
紅で真っ赤に彩られた唇から零れる声は、男性のもの。
すらりと高い長身に、金で刺繍をあしらった、深紅の着物。公家の召し物に勝るとも劣らない美を携えている。髪を高く結い上げ、頭に挿したかんざしの先で黒蝶が舞っていた。
彼は切れ長の瞳を更に細めるように笑いながら、
「うちの若いのは将来有望だわさ」
カラコロと声を上げて笑う。
冷やかしていると云うよりも、茶化しているらしい統領の傍で、公家らしき男性が、まあまあと、今にも笑い転げそうな統領を宥めすかした。
「若い二人の逢瀬を笑っちゃぁ、かわいそうですよ。いいじゃあないですか、人目を偲んで愛を囁く。実に美しい」
「いやだねぇ、忠さんってば、変に洒落っ気なんだからさ」
統領がおどけたように、男の肩を叩く。
忠さんと呼ばれた男は、赤くなった鼻先を擦りながら、ヘヘヘと声に出して笑った。
「人間とは、かくも儚く美しい生き物でございますからなあ」
忠の傍には、二人の人間が控えている。
一人は家人らしく、手ぬぐいを頭に巻き、荷物を背負って、忠より三歩ほど後方に立っていた。もう一人は側女のようだ。こちらからは顔が伺えぬよう、しおらしく俯いている。
茶々は、彼から見えぬよう、死角で露草の脇をつつくと、声を潜めるようにして訊ねた。
「彼は?」
「ここ半年くらいよく来る、統領目当てのお客さんだよ」
「へぇ」
相槌を打ちながら、茶々は忠をよくよくと見た。そおっと呟く。
「………よく化けているけど、人じゃないわね」
「――え?」
その時、犬の遠吠えが響いた。
夜の京を裂くような鳴き声。
狛だ。
忠はその声に何を感じ取ったか、にんまりと両の唇を持ち上げて笑った。その笑顔に、人ではない、獣の姿が重なる。耳に届くかと思う程に持ち上がった唇に、先の尖った幾本の歯が覗いた。
「今宵の見事な夜に、犬コロも浮かれているようですな」
隣に立つ統領に、彼の笑顔は見えない。小さく息を呑んだ露草の手を握って、茶々はしっかりと見据え返した。
顎を引いて、出来るだけ低い声が出るように咽頭を調節する。
「そうだな。発情期に違いない」
男は茶々の切り替えしが気に入ったようで、扇でほろほろと扇ぎながら、
「夜の京は色恋に耐えませんな」
冗談めかし、家人と側女がそれに応えるようにクスクスと笑った。
統領が窺うような瞳で茶々を見ている。
妖相手と知らないとは云え、統領も商売だ。茶々が下手に引っ掻き回して、露草の立場を悪くするわけにも行くまい。
茶々はもう一度、しっかりと忠を見た。
彼は間違いなく妖だ。見かけは人でも、独特な妖の気配を隠しきれていない。
何ゆえ人里まで降りて来ているのか。妖の中には、人里で暮らす風変わりな者もいるが、彼も単純にその中の一人なのか。
ようやく茶々は緊張を解いた。
辻斬りの件で、少々神経質になりすぎているようだ。今の茶々は、妖だからと云って疑っているに違いない。きっとそうだ。露草の話を聞いて、土蜘蛛が犯人ではない可能性を探し始めている。
「…本当だな」
茶々も、彼の冗談に笑って見せる。
すると忠は気をよくしたようで、いやはや、と両手を広げた。
「実に愛らしい恋人だ。こんな所で逢瀬を重ねるのも寂しいでしょうなぁ……そや、明日の宵にでも、食事を一緒に取るのはどうでしょ」
「ええですねえ」
のんびりと笑う統領が、茶々に視線を向ける。
その目が、一瞬、険しさを帯びた。
夜の京を、茶々のような子どもが歩いているだけでも稀なことだ。その子どもを屋敷に上げるなんて、あってはならない事なのだろう。
特に露草から聞く統領の人柄を考えれば、彼が胸の内でいかに気を揉んでいるかが察せった。
茶々は大丈夫ですよと云うように、微笑む。
「いいな。是非ご一緒させて頂こう」
「では、明日の夜。宵の口に」
「ええ。楽しみにしております」
「……ほな、忠さん。行きましょか」
統領が男の袖を引っ張って、先へと促した。
酒に飲まれているのか、ひょいひょいと歩く彼の後ろに続く最中、統領が首を巡らせて茶々を振り返る。茶々が頭を下げると、彼は、少し困ったように微笑んだ。
一連の動作の中で、初めて彼が男の人なのだということを匂わせるような、哀愁漂う笑顔。目を奪われた一瞬の間で、彼は女性顔負けの優美な仕草で頭を下げると、忠の後について行った。
忠と統領に、家人と側女もしずしずと続く。その時、前方から、彼らと入れ違うようにして、女が駆けて来た。夜の闇を照らすような、橙。
「茶々さま!」
「鬼灯?」
ここにいるはずのない姿に、茶々が首を傾げる。
そんな鬼灯の後ろを駆けて来た神威の姿を見て、茶々は更に面食らったように驚いた。
彼は突然走り出した鬼灯の後ろを、状況が読めないまま付いてきているようだ。ただ神威が、男たちとすれ違いざまに、驚いたように動きを止めた。目があったらしい統領が、艶やかな笑みを浮かべて頭を下げているのが遠目に見える。
やっぱり男って、ああいう大人の女に弱いのかしら。
過ぎった考えの不愉快さに、茶々が唇をヘの字にひん曲げている間にも、鬼灯は他に目もくれず走って来て、茶々を抱きしめた。
「ちょ、鬼灯…!」
「お怪我はありませんか、茶々さま」
「何もないわ。どうしたの?」
「狛が咆えたので、何かあったのかと思いまして…」
云いながらも、茶々の言葉は信用できないらしい。鬼灯はあちらこちらと茶々の身体を見て回っている。背中までぐるりと見回して、ようやく安心したように、鬼灯はほっと息を吐いた。
一方、遅れて駆けて来た神威は茶々を気遣うかと思いきや、
「茶々様、その格好は一体――!」
小袖の茶々に対する驚きの方が勝ったようで、目を白黒とさせている。
茶々はふふん、と勝ち誇ったように、
「似合うでしょ?」
と、胸を張ると、彼は何と云っていいのか分からないように、口を開閉させた。
葛が袴を泥で汚した時、袴を貸そうかと云っていたのは、こういう意味だったのかと神威は悟る。茶々のものしかないはずの屋敷に袴があるのかと、確かに疑問に思ったはずが、あの屋敷の生活の中で次々と起こる疑問の数々に流されて、すっかり忘れてしまっていた。
「似合うとか、似合わないという以前に…その」
思わず、言葉を濁してしまう。ついでに目も逸らしながら、
「本当にその、童子そのもので…」
正直に述べた感想に、寸ともせぬ間にドスッと鈍い音が響いた。
うっ、と、くぐもった声をあげる神威の腹には、茶々の拳。遠慮ない一発に、神威はしゃがみこんだ。
酸っぱい物が胃から競り上がってくる。
我慢している神威を、真っ赤な顔をした茶々が、睨むようにして見下していた。
「そのものってどういう意味よ!」
「申し訳ありません」
失言も失言だ。
どうやらこの姫様は、口が達者になっただけじゃなく、手まで出るようになったらしい。神威が嘔吐やら痛みやらを堪えていると、クスクスと笑う声が耳に入った。
聞き覚えのない声に顔をあげると、茶々の隣に、少女が立っている。
手折れる花のように、儚く美しい少女であった。だのに、どこか妙な具合を覚え、しばらく見つめていた神威は、ようやく納得行ったように声を上げる。
「童子か」
「はい。露草と申します」
「露草……若衆か?」
「まだ見習いでございますが」
露草が微笑む。
神威は何かを考えるように、土手の方へ首を巡らせると、なるほど、と一人呟いた。
途端に懐かしむような顔付きになる。
「じゃあ、あれはやはり赤霧か」
赤霧、とは。
茶々がはて、と、小首を傾げている傍らで、露草が、え、と驚いた。
「統領をご存知で?」
「ああ。 ……同じ血筋なものでね」
それで先ほど、一瞬立ち止まったのか。
色事で立ち止まったのではないのか、と云う安心と、驚きに、茶々は目を瞬かせた。
「世間って、本当に狭いのね」
感心に尽きる。
露草も驚きが隠せないらしく、ぽかんと口を開いたまま、
「と云う事は……統領も、元は公家の…?」
零すように云ってから、露草は慌てて両手で口を塞いだ。初対面の人間の素性を知っているというのは、いささか気味悪く思われてしまうもの。知っていても、口にしないのが礼儀だ。
神威は虚を突かれたような顔で露草を見ていたが、すぐに茶々が喋ったのだと合点いった様子で、苦笑を零しながら、
「俺達の一族は元々、公家ではありませんよ。どちらかと云うとそうですね……こういう下町の方が肌に合うくらいで」
神威はくるりと夜の京街を見回す。
「俺達が育った一門は風変わりでしてね。子ども達を集めては、体術や、薬草学。武器製法や、人が人に化ける…なんて云った方法を伝授するのが仕来りだったのです。おかげで、俺や赤霧のような変わり者ばかりが育ってしまった」
そう云いつつも、どこか楽しげだ。
遠い昔を懐かしんでいる神威を、茶々はぼうと見上げる。
茶々の中の神威は全て、出会ってから始まっている。それが当たり前とは分かっているものの、茶々が知らない頃の神威を知る、と云うのはどこか変な具合だ。
「それで、帝の影に選ばれたの?」
訊ねると、神威はいいえ、と首を横に振って、
「それは単純に、恐れ多くも俺が帝に似ていたからですよ。多少武術の心得があるというのも後押しとなって、役目を頂いたのです。もっとも、不意を突かれて背中を斬られた今となっては、あまり大きな声で出来る昔話ではないのですが、ね」
「それは…!」
云い掛けた茶々を、露草と神威が見る。
遮るように口を挟んでしまったものの、咄嗟な行動だっただけに、後に続かない。
「えーっと」
散々に考えた挙句、ようやく出たのは、
「誰にでも、そういう間違いはあるわよ、多分…」
と云う訳の分からない一言で、自己嫌悪に陥った茶々の耳に、ブハッ、と遠慮なく噴出す露草の声が聞こえた。茶々は、一瞬の間に赤面する。
「つ、露草! 笑わないでよ、余計に恥ずかしいじゃないっ」
「茶々、そういうのは誰にでもない上に、あったら困る間違いだよ」
「分かってるわよ!」
そういう事が云いたいんじゃなくて、と云いたい所だが、云えば更に墓穴を掘る気がする。それに露草は絶対、茶々の云いたい事が分かった上で茶化しているに違いない。
唇を一文字に結んだまま露草を睨みつけていた茶々だが、ふと、思い出したように神威へ目を向けた。
目があった瞬間、うあ、と間の抜けた声が二つ。
神威は、茶々に負けず劣らず、赤面していた。
耳まで真っ赤になった顔を隠すように、袖で、頬から下を隠している。
思いもよらない彼の反応に、茶々もまた恥ずかしさが増して、二人して同時に顔を背けた。
「その、茶々様」
「何よ」
「………ありがとう、ございます」
「………どういたしまして…」
おやおや、まあまあ。
露草と鬼灯は、顔を見合わせた。
素直になれば話は早かろうに、どうして常にそれが出来ないのか。
それをさせる美しい京の夜は、今、ゆっくりと沈み始めていた。宵が、明ける。