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きみおもふ  作者: 豆蔵。
7/13

さん、緑の都-3



 呆気に取られた。茶々は食いつくように露草を見ると、彼の両肩を掴む。

 「土蜘蛛! その男、土蜘蛛と名乗ったの?」

 息を詰めるような剣幕で問い詰められた露草は、返って驚いたように目を瞬かせた。

 「うん。もしかして、茶々の知り合いかい?」

 訊かれて、茶々は惑う。

 「え、嫌……」

 最初の勢いはどうしたのか、茶々は逃げるように視線を逸らすと、露草の肩から手を退けた。ゆっくりと首を横に振る。

 「何でもないわ」

 四年前、土蜘蛛が起こした辻斬りと、よく似た事件が起こっている。土蜘蛛が京に戻って来たと考えるのが自然な流れだ。

 「土蜘蛛…」

 零すように、茶々は呻いた。

 「露草、その人とはよく会うの?」

 「時折…かな。あの人が、その屋敷に来る時だけだよ。帰る時は必ずこの道を通るんだ。僕がいるお屋敷はもう少し川の下手にあるから、姿を見つけては道に出るんだけれど…」

 そこまで云って、露草は切なげに微笑んだ。

 「………やっぱり、碌な人じゃないんだな」

 露草の初恋相手が、土蜘蛛。

 茶々は形容し難いような黒い鉛が、ずっしりと胸の中に落ちていくのを感じる。

 あの時の茶々の気持ちが分かった、と、微笑んだ彼に告げる言葉が見つからなくて、茶々はしどろもどろと視線を泳がせた。何か云おうと開いた口から、声が出ない。

 そんな茶々を見かねたように、

 「いいんだ。茶々が気に病む事は何もない」

 露草は淡く微笑んだ。

 ロウソクの上で揺れる灯のように、芯強く、緩やかな笑み。

 シャンと伸ばした背にかかった黒髪が、風と遊ぶように靡いた。

 「今更彼の素性を知ったところで、僕の気持ちは変わらないから」

 「露草…」

 「茶々。この京には、一体いくらの人々が住んでいるんだろう? その人たちが一々味わう幸せも、悲しみも、僕にとってはどうでもいい事だ。 ……例えそれが、誰かの死であろうとも」

 茶々の瞳に映った、露草の横顔。その瞳には揺ぎ無い想いが宿っているように、彼は真っ直ぐと夜の都を見据えていた。

 「せめて大切な人が幸せであれば、それでいいんだ。僕は」

 露草の姿が告げている。

 例え今ここで、辻斬り犯が彼かも知れないと告げた所で、露草の想いは変わらない事も、会うなと云った所で意思が揺るがない事も。

 京の人々を敵に回しても――その中に茶々がいようと、露草は迷う事なく土蜘蛛の幸せを願うと云う。

 茶々は胸の前でギュッと手を握ると、唇を噛み締めた。

 「何で、………何でそんな風に誰かを愛せるの? 露草、あたしたちは知っているはずよ。他人がどれ程浅ましい生き物か、いい気になっているだけの生き物か、愛すべき価値なんてない事」

 「なら茶々は、どうして影の人を愛したの?」

 「あの頃は信じてた!」

 静寂を、茶々の金切り声が引き裂いた。

 茶々は露草の腕を掴むと、身を乗り出すようにして叫ぶ。

 「何もかもを無条件に信じてた! 愛してた! でも、違った! 他人にあたしの世界は理解出来ない! 最後は皆わたしを裏切った! だからあたしは、もう二度と他人を愛さないと誓ったの!」

 すがりつくような茶々を、露草は見下ろす。その顔から微笑みが絶える事はない。

 「優しすぎるんだよ、茶々は」

 まるで全てを受け入れるように、彼は笑う。

 「僕は端から、全てに絶望できるほど、この世界を愛していない。僕にとっては、この世の中の大半がどうでもいいんだ。愛する事も、嫌う事も、面倒くさいくらいだ。 ……そんな僕でも、大切な者が少しはある」

 露草の瞳に、戸惑う茶々が映る。

 ガラス玉のような茶色い瞳は、澄んだ様に美しい。

 「茶々、僕は今、すごく幸せだ」

 その瞳に、じんわりと涙が滲む。持ち上がった両の唇が、小刻みに震える。

 「例え彼が何者であったとしても。彼の眼中に、僕が入れない事なんて分かりきっていても……それでも…っ」

 ぼろりと、涙が落ちる。次いで、ぼろぼろと大粒の涙が頬を濡らした。

 茶々は、泣きじゃくる露草の姿を、呆然と見つめている。

 なんて美しい泣き顔なのだろう。

 なんて強い生き物なのだろう。

 胸が、痛い。

 「あの人と会う刻を心待ちにして過ごす時間が、嬉しい。初めて、生きる事を幸せだと思えたよ。 …僕は、この狂おしいくらい切なくて、愛しい世界を、捨てきれない…!」

 「露草ぁ…っ」

 茶々は上から覆い被さるようにして露草を抱きしめた。支えきれずに、二人して夜露に濡れた草叢に倒れこむ。

 「馬鹿! ばか、バカ、馬鹿、バカ!」

 罵りながら、彼の肩を叩く。

 「何で他人を愛したの! 何で…、なんで、好きになったりしたの」

 声がつかえて、ひぅ、と茶々はしゃくりあげた。目頭が熱い。つんと鼻が痛くなる。

 「露草のばかぁ!」

 うわーん、と、子ども染みた泣き声をあげる茶々を見て、露草は、泣き顔のまま微笑んだ。しっとりと濡れた袖をあげて、茶々を抱きしめる。

 「茶々なんだよ。 ……僕にこの気持ちを教えてくれたのは、茶々なんだ」

 「知らない、そんなの、知らない!」

 「知らなくないよ。影の人の事を話す時、茶々は本当に幸せそうだったじゃないか。彼が都を離れなければならないと知った時、泣きながらも、気丈に見送る事を決意したじゃないか。 ……僕の中で幼かった茶々は、あの時変わった。茶々は綺麗で、格好良かったよ」

 「違う!」

 「違わない。茶々、逃げちゃだめだよ。他人を愛してしまうんじゃない。好きになってしまうんじゃない。好きだから、愛してしまうんだ。例えそれがどんな茨道だったとしても、この気持ちはどうしようもない。否定するより、受け入れた方がずっと楽だよ」

 つゆくさ、と、呼ぶ声が掠れる。

 彼は全部知っている。茶々がどれ程神威を愛していたか。傍に居たいと願っていたか。叶わぬ願いと知った時、たまらぬ想いに焦がれたか。

 彼は恐らく分かっている。茶々が露草に会いに来た訳を。

 酷い奴だと云って欲しかった。今更会いに来たなんて、勝手な奴だ。尻蹴飛ばして追い出してやれと云ってくれれば、再び惹かれ始めているこの想いを、誤魔化す事が出来ると思った。

 だのに、云ってくれない。それ所か、茶々のおかげで他人を愛せる、なんて。

 茶々は下唇を噛み締めた。

 露草の手が、あやすように茶々の背中を撫ぜる。

 「分かっているんだろう? 茶々」

 「…」

 「本当は」

 「……」

 「もう一度会った時から、影の人に恋をしている事」

 見たくない事実を突きつけられたように、茶々が瞳を大きく見開く。

 何か言い返そうと開いた唇が、動かない。

もう一度泣きそうに表情を歪めた彼女は、ぎゅぅと瞳を瞑って、叫んだ。

 「分かってるわよ! 分かってる! 初めは昔と違う姿を見て、絶望してやろうと思ったわ! でも、出来なかった! あんなに優しかったのに、すごく意地悪な物言いをするようになったわ、とか、昔の雅な仕草とは違うわ、とか、気に入らない所を一々数えてやったのよ! それなのに、なのに…っ」

 箍が外れたように、押し込めていたものが一気に溢れ出す。

 口の端を針で引っ掛けたように笑う、あの嫌味な笑顔。

 不意に茶々を射抜く、あの切なげな瞳。

 ボサボサな髪に手を入れて、あくびを噛み殺している、だらしのない姿。

 吹雪から視線を移す時の、緩やかな流れ。

 嗚呼、思い出す度、心臓が千切れそうに痛む。

 「どうして嫌いになれないのっ!」

 云って、露草の胸に顔を埋めて泣きじゃくる茶々を、彼はその背中に手を回して抱きしめた。耳元に寄せるようにして、近づけた唇で囁く。

 「茶々、きっとそれが、恋なんだ」

 おずおずと触れた露草の背中は、夜露に濡れていた。今更ながら、風邪を引くんじゃないかしらと心配になる。

 それでも、露草から漂う甘い香りに吸い寄せられるように、茶々は平たい胸に額を付けた。

 ふふ、と、どちらからともなく笑顔が零れる。

 「露草がいてくれて、良かった」

 「僕も…茶々がいてくれて、本当に良かったよ。茶々は僕の、大切な人だから」

 「それはもちろん、土蜘蛛よりも…よね?」

 「まさか」

 「露草、ひどーい」

 茶々は膨れ面を返す。

 あれ程聞く事が怖かった言葉を前にしても、もう怯えずとも良い。

 茶々がいてくれて良かったと、露草は云ってくれたから。

 「あはは。拗ねないでよ、茶々。あの人を想う気持ちと、茶々を想う気持ちは全然別物なんだ。無理矢理比べれば、の話。茶々だってそうだろ?」

 「え?」

 「とぼけないの。影の人が好きなんだろう?」

 窺うように顔を上げれば、悪戯小僧のような顔をした露草と瞳があった。

 普段、大人染みたすまし顔をしているだけに、こんな顔で見つめられると、なお更罰が悪い気持ちになる。

 茶々は、むむー、と低く唸り声を上げると、口先を尖らせた。

 「よほどあたしに好きと云わせたいのね、露草は」

 「うーん。乙女な恋話を出来る相手が他にいないからね、僕は」

 そう云いながら困ったように笑われては、立つ瀬がない。

 茶々はゴニョゴニョと濁すように視線を逸らすと、河辺を見つめた。

 魚がぴしゃりと跳ねる。

 対岸に咲いた花が、露を落とした。

 今宵は、霧が出ない。

 美しい夜の京を見ながら、

 「……………好きよ」

 呟いた茶々は、露草の胸の中で、人知れず笑みを浮かべた。

 「神威が好き」

 絶対云わないけどね、と、付け足すのは忘れない。

 露草の云う通り、認めるだけで、気持ちが随分と穏やかになる。荒れ狂っていた波が、落ち着きを取り戻して行くようだ。

 云う必要はない。

 神威が変わってしまったように、茶々も変わった。

 素直で愛らしい、純真無垢な少女ではない。神威が愛そうとしてくれた茶々は、もういない。

 家柄にしてもそうだ。

 神威は公ではないとはいえ、帝と関わりがある。

 世間的にも、藤原の家を捨てたと同然の茶々が、懸想していい相手ではない。

 このまま、表面上は今のまま、茶々は神威を嫌っている振りをして、山荘から追い出せばいいのだ。そうすれば、神威と茶々を繋ぐものはまた無くなる。

 自分の気持ちを認めなくて済むよう、彼を追い出そうとしていた時より、確固たる思いが胸に宿る。

 そうだ。神威は茶々と関わるべきではない。

 他人を恨み、妖と生きる事を決めた茶々と、公家と呼ぶ身分の彼とは、もう住む世界が違う。

 認めた上で、別れよう。

 そうすればきっと、ほんの少しだけ、あの頃の茶々に戻れる気がした。

 誰かの幸せを、一生懸命に願えていたあの頃に…。

 「ありがとう、露草」

 「うん」

 「――おや、露草じゃないか」

 土手の方から声が聞こえて、露草はふと顔を上げた。

 穏やかに名を呼ぶ。

 「ああ、統領」

 統領、の名に茶々も土手へと目を向けた。

 土手から河辺を見下ろしている、四人の男女。その中心に立っていた、目を奪う程の絶世の美女が、フフンと嘲笑うように唇を持ち上げて笑った。

 「こんな所で逢引とは、洒落てないね」

 彼が、統領。

 夜闇に映える艶やかなその姿に、茶々は息を詰めるようにして彼を見つめた。

 紅で真っ赤に彩られた唇から零れる声は、男性のもの。

 すらりと高い長身に、金で刺繍をあしらった、深紅の着物。公家の召し物に勝るとも劣らない美を携えている。髪を高く結い上げ、頭に挿したかんざしの先で黒蝶が舞っていた。

 彼は切れ長の瞳を更に細めるように笑いながら、

 「うちの若いのは将来有望だわさ」

 カラコロと声を上げて笑う。

 冷やかしていると云うよりも、茶化しているらしい統領の傍で、公家らしき男性が、まあまあと、今にも笑い転げそうな統領を宥めすかした。

 「若い二人の逢瀬を笑っちゃぁ、かわいそうですよ。いいじゃあないですか、人目を偲んで愛を囁く。実に美しい」

 「いやだねぇ、(ちゅう)さんってば、変に洒落っ気なんだからさ」

 統領がおどけたように、男の肩を叩く。

 忠さんと呼ばれた男は、赤くなった鼻先を擦りながら、ヘヘヘと声に出して笑った。

 「人間とは、かくも儚く美しい生き物でございますからなあ」

 忠の傍には、二人の人間が控えている。

 一人は家人らしく、手ぬぐいを頭に巻き、荷物を背負って、忠より三歩ほど後方に立っていた。もう一人は側女のようだ。こちらからは顔が伺えぬよう、しおらしく俯いている。

 茶々は、彼から見えぬよう、死角で露草の脇をつつくと、声を潜めるようにして訊ねた。

 「彼は?」

 「ここ半年くらいよく来る、統領目当てのお客さんだよ」

 「へぇ」

 相槌を打ちながら、茶々は忠をよくよくと見た。そおっと呟く。

 「………よく化けているけど、人じゃないわね」

 「――え?」

 その時、犬の遠吠えが響いた。

 夜の京を裂くような鳴き声。

 狛だ。

 忠はその声に何を感じ取ったか、にんまりと両の唇を持ち上げて笑った。その笑顔に、人ではない、獣の姿が重なる。耳に届くかと思う程に持ち上がった唇に、先の尖った幾本の歯が覗いた。

 「今宵の見事な夜に、犬コロも浮かれているようですな」

 隣に立つ統領に、彼の笑顔は見えない。小さく息を呑んだ露草の手を握って、茶々はしっかりと見据え返した。

 顎を引いて、出来るだけ低い声が出るように咽頭を調節する。

 「そうだな。発情期に違いない」

 男は茶々の切り替えしが気に入ったようで、扇でほろほろと扇ぎながら、

 「夜の京は色恋に耐えませんな」

 冗談めかし、家人と側女がそれに応えるようにクスクスと笑った。

 統領が窺うような瞳で茶々を見ている。

 妖相手と知らないとは云え、統領も商売だ。茶々が下手に引っ掻き回して、露草の立場を悪くするわけにも行くまい。

 茶々はもう一度、しっかりと忠を見た。

 彼は間違いなく妖だ。見かけは人でも、独特な妖の気配を隠しきれていない。

 何ゆえ人里まで降りて来ているのか。妖の中には、人里で暮らす風変わりな者もいるが、彼も単純にその中の一人なのか。

ようやく茶々は緊張を解いた。

 辻斬りの件で、少々神経質になりすぎているようだ。今の茶々は、妖だからと云って疑っているに違いない。きっとそうだ。露草の話を聞いて、土蜘蛛が犯人ではない可能性を探し始めている。

「…本当だな」

 茶々も、彼の冗談に笑って見せる。

 すると忠は気をよくしたようで、いやはや、と両手を広げた。

 「実に愛らしい恋人だ。こんな所で逢瀬を重ねるのも寂しいでしょうなぁ……そや、明日の宵にでも、食事を一緒に取るのはどうでしょ」

 「ええですねえ」

 のんびりと笑う統領が、茶々に視線を向ける。

 その目が、一瞬、険しさを帯びた。

 夜の京を、茶々のような子どもが歩いているだけでも稀なことだ。その子どもを屋敷に上げるなんて、あってはならない事なのだろう。

 特に露草から聞く統領の人柄を考えれば、彼が胸の内でいかに気を揉んでいるかが察せった。

 茶々は大丈夫ですよと云うように、微笑む。

 「いいな。是非ご一緒させて頂こう」

 「では、明日の夜。宵の口に」

 「ええ。楽しみにしております」

 「……ほな、忠さん。行きましょか」

 統領が男の袖を引っ張って、先へと促した。

 酒に飲まれているのか、ひょいひょいと歩く彼の後ろに続く最中、統領が首を巡らせて茶々を振り返る。茶々が頭を下げると、彼は、少し困ったように微笑んだ。

 一連の動作の中で、初めて彼が男の人なのだということを匂わせるような、哀愁漂う笑顔。目を奪われた一瞬の間で、彼は女性顔負けの優美な仕草で頭を下げると、忠の後について行った。

 忠と統領に、家人と側女もしずしずと続く。その時、前方から、彼らと入れ違うようにして、女が駆けて来た。夜の闇を照らすような、橙。

 「茶々さま!」

 「鬼灯?」

 ここにいるはずのない姿に、茶々が首を傾げる。

 そんな鬼灯の後ろを駆けて来た神威の姿を見て、茶々は更に面食らったように驚いた。

 彼は突然走り出した鬼灯の後ろを、状況が読めないまま付いてきているようだ。ただ神威が、男たちとすれ違いざまに、驚いたように動きを止めた。目があったらしい統領が、艶やかな笑みを浮かべて頭を下げているのが遠目に見える。

 やっぱり男って、ああいう大人の女に弱いのかしら。

 過ぎった考えの不愉快さに、茶々が唇をヘの字にひん曲げている間にも、鬼灯は他に目もくれず走って来て、茶々を抱きしめた。

 「ちょ、鬼灯…!」

 「お怪我はありませんか、茶々さま」

 「何もないわ。どうしたの?」

 「狛が咆えたので、何かあったのかと思いまして…」

 云いながらも、茶々の言葉は信用できないらしい。鬼灯はあちらこちらと茶々の身体を見て回っている。背中までぐるりと見回して、ようやく安心したように、鬼灯はほっと息を吐いた。

一方、遅れて駆けて来た神威は茶々を気遣うかと思いきや、

 「茶々様、その格好は一体――!」

 小袖の茶々に対する驚きの方が勝ったようで、目を白黒とさせている。

 茶々はふふん、と勝ち誇ったように、

 「似合うでしょ?」

 と、胸を張ると、彼は何と云っていいのか分からないように、口を開閉させた。

 葛が袴を泥で汚した時、袴を貸そうかと云っていたのは、こういう意味だったのかと神威は悟る。茶々のものしかないはずの屋敷に袴があるのかと、確かに疑問に思ったはずが、あの屋敷の生活の中で次々と起こる疑問の数々に流されて、すっかり忘れてしまっていた。

 「似合うとか、似合わないという以前に…その」

 思わず、言葉を濁してしまう。ついでに目も逸らしながら、

 「本当にその、童子そのもので…」

 正直に述べた感想に、寸ともせぬ間にドスッと鈍い音が響いた。

 うっ、と、くぐもった声をあげる神威の腹には、茶々の拳。遠慮ない一発に、神威はしゃがみこんだ。

 酸っぱい物が胃から競り上がってくる。

我慢している神威を、真っ赤な顔をした茶々が、睨むようにして見下していた。

 「そのものってどういう意味よ!」

 「申し訳ありません」

 失言も失言だ。

 どうやらこの姫様は、口が達者になっただけじゃなく、手まで出るようになったらしい。神威が嘔吐やら痛みやらを堪えていると、クスクスと笑う声が耳に入った。

 聞き覚えのない声に顔をあげると、茶々の隣に、少女が立っている。

 手折れる花のように、儚く美しい少女であった。だのに、どこか妙な具合を覚え、しばらく見つめていた神威は、ようやく納得行ったように声を上げる。

 「童子か」

 「はい。露草と申します」

 「露草……若衆か?」

 「まだ見習いでございますが」

 露草が微笑む。

 神威は何かを考えるように、土手の方へ首を巡らせると、なるほど、と一人呟いた。

 途端に懐かしむような顔付きになる。

 「じゃあ、あれはやはり(あか)(きり)か」

 赤霧、とは。

 茶々がはて、と、小首を傾げている傍らで、露草が、え、と驚いた。

 「統領をご存知で?」

 「ああ。 ……同じ血筋なものでね」

 それで先ほど、一瞬立ち止まったのか。

 色事で立ち止まったのではないのか、と云う安心と、驚きに、茶々は目を瞬かせた。

 「世間って、本当に狭いのね」

 感心に尽きる。

 露草も驚きが隠せないらしく、ぽかんと口を開いたまま、

 「と云う事は……統領も、元は公家の…?」

 零すように云ってから、露草は慌てて両手で口を塞いだ。初対面の人間の素性を知っているというのは、いささか気味悪く思われてしまうもの。知っていても、口にしないのが礼儀だ。

神威は虚を突かれたような顔で露草を見ていたが、すぐに茶々が喋ったのだと合点いった様子で、苦笑を零しながら、

 「俺達の一族は元々、公家ではありませんよ。どちらかと云うとそうですね……こういう下町の方が肌に合うくらいで」

 神威はくるりと夜の京街を見回す。

 「俺達が育った一門は風変わりでしてね。子ども達を集めては、体術や、薬草学。武器製法や、人が人に化ける…なんて云った方法を伝授するのが仕来りだったのです。おかげで、俺や赤霧のような変わり者ばかりが育ってしまった」

 そう云いつつも、どこか楽しげだ。

 遠い昔を懐かしんでいる神威を、茶々はぼうと見上げる。

 茶々の中の神威は全て、出会ってから始まっている。それが当たり前とは分かっているものの、茶々が知らない頃の神威を知る、と云うのはどこか変な具合だ。

 「それで、帝の影に選ばれたの?」

 訊ねると、神威はいいえ、と首を横に振って、

 「それは単純に、恐れ多くも俺が帝に似ていたからですよ。多少武術の心得があるというのも後押しとなって、役目を頂いたのです。もっとも、不意を突かれて背中を斬られた今となっては、あまり大きな声で出来る昔話ではないのですが、ね」

 「それは…!」

 云い掛けた茶々を、露草と神威が見る。

 遮るように口を挟んでしまったものの、咄嗟な行動だっただけに、後に続かない。

 「えーっと」

 散々に考えた挙句、ようやく出たのは、

 「誰にでも、そういう間違いはあるわよ、多分…」

 と云う訳の分からない一言で、自己嫌悪に陥った茶々の耳に、ブハッ、と遠慮なく噴出す露草の声が聞こえた。茶々は、一瞬の間に赤面する。

 「つ、露草! 笑わないでよ、余計に恥ずかしいじゃないっ」

 「茶々、そういうのは誰にでもない上に、あったら困る間違いだよ」

 「分かってるわよ!」

 そういう事が云いたいんじゃなくて、と云いたい所だが、云えば更に墓穴を掘る気がする。それに露草は絶対、茶々の云いたい事が分かった上で茶化しているに違いない。

 唇を一文字に結んだまま露草を睨みつけていた茶々だが、ふと、思い出したように神威へ目を向けた。

目があった瞬間、うあ、と間の抜けた声が二つ。

 神威は、茶々に負けず劣らず、赤面していた。

 耳まで真っ赤になった顔を隠すように、袖で、頬から下を隠している。

 思いもよらない彼の反応に、茶々もまた恥ずかしさが増して、二人して同時に顔を背けた。

 「その、茶々様」

 「何よ」

 「………ありがとう、ございます」

 「………どういたしまして…」

 おやおや、まあまあ。

 露草と鬼灯は、顔を見合わせた。

 素直になれば話は早かろうに、どうして常にそれが出来ないのか。

 それをさせる美しい京の夜は、今、ゆっくりと沈み始めていた。宵が、明ける。


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