さん、緑の都-2
宵。
子の刻ともなると、虫や妖の時間となる。
昼間はツクツクボウシやヒグラシの鳴き声が殊更よく聞こえるが、夜になると、鈴虫や蛙の音が目立つようになる。
晩夏の季節。
よくやく、幾ばくか涼しげな風も吹き込み始めた。
当初屋敷を訪れた頃は、毎夜、部屋の暗がりから聞こえるひそひそ話しや、時折布団の周りを歩く音などが聞こえて寝付けなかった神威も、近頃はぐっすりと眠りに落ちるようになった。
単純に慣れたと云うのもあるのだろうが、騒音に目を覚まして見れば、人ではなくても、必ず見知った姿がそこにある。必ず、付喪神だ。
彼らは話したり、走ったり、神威の髪を結んでみたりと、日々悪戯に精を出して過ごしている可愛い奴ら。
姿が見えるようになってからは、暗闇に対する畏怖もない。
今宵も、風が草木を撫ぜる柔らかな音や、淡い花の匂い。鈴虫や蛙の声。付喪神の気配を感じながらも眠っていた神威だが、神威さま、と、呼ぶ声に目を覚ました。
「……鬼灯殿?」
夢うつつを彷徨っていた神威は、自分を見下ろすその姿を理解するのにしばし時間を要した。夜だというのに、しっかりと着込んである橙色の唐衣に、少しずつ目が覚めていく。
「鬼灯殿か」
ようやく神威が身を起こすと、鬼灯はふふふ、と笑った。
「お目覚めになりましたか?」
「ああ。 ……どうされた、こんな夜更けに」
「茶々さまがお出かけになりましたので、神威さまにお知らせしようと思い」
「茶々様がお出かけ? 屋敷から出られたのか? こんな夜更けに?」
思いがけない言葉に一気に目は冴えたが、いささか素っ頓狂に問うてしまう。
茶々が屋敷から出たと云うだけでも驚くべき事なのに、人も寝静まる子の刻だ。正気の沙汰とは思えない。
ましてや葛の話しでは、近頃は辻斬りも出ると云う。
慌てて立ち上がろうとした神威を、
「心配はございません、狛が共についております。薬師丸も、何かあればすぐ駆けつけましょう」
鬼灯は押し留めた。
「それに、茶々さまがお出かけになるのは、だいたいこれ位の刻ですわ」
「………と、云う事は何か? 茶々様は、いつもこんな夜更けに出歩かれるのか?」
「ええ。 …出かけられること自体が、本当にたまになのですけれど」
言いにくそうに鬼灯が相槌を打つと、神威はげんなりと頭を抱えた。
年頃の姫君が、こんな夜更けにフラフラと出歩くなんて言語道断だ。あってはならない。品があるとかないとか以前の問題だ。鉦靖にあわせる顔がない。
神威が呻くと、鬼灯は苦笑を零し、
「茶々さまは、人が出歩かぬ時間を好みますから…」
と、弁解するような風を見せる。
「そういう問題じゃないよ、鬼灯殿」
神威がほとほと呆れ果てていると、鬼灯は神威の手をとって起こした。
「神威さまを起こしたのは、茶々さまをお叱り頂くためではございませんわ。行きましょう」
ぐいぐいと引っ張る。
つられるまま鬼灯の後を付いていく神威が、
「行くとはどこへ?」
訊ねると、鬼灯はさも当然に、
「茶々さまを追いかけるのですわ」
答えた。
「追いかけるとは……茶々様がどこにいるのか知っているのか?」
「わたくしは茶々さまの式ですもの」
部屋を出ると、二人して廊下を駆けて行く。
寝巻きの神威ならともかく、唐衣を着ている鬼灯があまりに身軽な動きだ。重さなど露とも感じさせない。
屏風の前を通り抜ける最中、屏風の君が、いってらっしゃいとでも云うように手を振っていた。どこか愉快そうに唇が持ち上がっているのが、絵だと特によく分かる。
草履を履くのもやっとに屋敷を出た神威は、前を走る鬼灯に声をかけ、
「鬼灯殿、夜なのに明かりは――」
息を呑んだ。
暗闇の中、ぼうと鬼灯が光っている。
まるで彼女自身が灯りのように、暗闇を照らす様に神威が驚いていると、
「必要ありませんわ」
鬼灯は悪戯に微笑んだ。
彼女は石畳の上を、滑るようにして駆けて行く。
山中ではほうほうと梟が鳴いていた。
弓張り月が西へ沈んでいく。
木と木が絡まるようにして鬱蒼と生えている山を、掻き分けるようにして、二人は走っていた。
山の地面から出た根に、神威は何度足を取られたことか。
しかし鬼灯は、唐衣の裾を取られるような仕草をまるで見せない。
人の子である神威はそんな彼女を追いかけるのも一苦労で、呼吸を乱しながらもようやく付いて行っていた。
「鬼灯殿」
「はい」
「何故、そこまで、俺に…っ、手を…貸してくださる?」
途切れ途切れになりながらも、やっと言葉になった問い。
鬼灯はちらりと神威を振り返ると、華も零れるような笑顔を浮かべた。
「それは、あなたさまだからですわ、神威さま」
「え?」
それはどういう意味か。
神威が深く聞く前に先手を打つようにして、鬼灯は言葉を繋げた。
「あなたさまならきっと、茶々さまをお救い頂けると信じていますもの」
ざざざ、と木の葉を退けた先に見える、宵の都。
山を抜けた。
一方の茶々は、河辺に腰掛けていた。露が尻を濡らさぬように分厚い布を敷いている。
さらさらと流れる水の音を、蛙の賑やかな声が掻き消していく。
ほとほとと通り過ぎて行く牛車。牛も人も、川辺に腰掛けている茶々たちに目も留めず歩いて行く。夜の都ではこれが常識だ。ふと見たものが妖なら、魂を取られかねない。
そう信仰されている中で、茶々は久しぶりに下りてきた都を、まんべんなく、ぐるりと見回した。
「いつ来ても墓場みたいね」
嫌味も忘れない。
嘲笑うかのように云った茶々の隣に座っていた少女は、くすりと笑い声をあげた。
「それは、茶々が夜の都しか知らないからだよ。昼の都は本当に賑やかで明るい。……もっとも、ここら辺が夜の都では一番活気付いている場所だけどね」
ここは今で云う、歓楽街のような場所だ。
ここいらに住まう女性は、大抵が男を取って生計を立てている。河上に見える大きな屋敷は、いわゆる「店」の原型で、家を持たない女たちがそこを寝城にしては、蔀の奥から、道行く男たちを誘うように手招いて、家を持つまでの資金集めをしているのだ。
先ほどの牛車もそこから出て来た。
とぼとぼと河縁を下って行く牛車を見ながら、茶々はふぅん、と相槌を打つ。
「露草も? そうやってお客を取っているの?」
露草と呼ばれた少女は、首を少し横に傾けると、瞳を伏せて微笑んだ。
肩より少し下まで伸ばした髪。生意気そうに見える、小鹿のような瞳。夜闇に映えるような白い肌に纏っているのは、薄い寝巻きだった。
「僕はまだ下端だから、客は取れないかな。おかげで生活は苦しいけど……統領を見ていたら、幸先は明るそうだし。女と違って妊娠がないから、自分さえ磨けば先は末永いって云うのが統領の持論だからね。都合よく僕も、それに乗っかって行こうかと思ってる」
月が映った河面が照らす姿は、少女のように華やかだ。が、声が少し低い。寝巻きから伸びる四肢も、女性特有の丸みがなく、骨ばっている。背も、隣に座っている茶々に比べたら随分と高い。一見して少女と見紛うが、青年だった。
露草はふと隣に座る茶々を見ると、噴出すようにして笑った。
「それにしても、毎回笑いが尽きないね。茶々のお出かけ姿は」
「似合うでしょ?」
ニヤリと茶々が笑う。
彼女は今、髪をしっかりと結い上げ、小袖に身を包んでいた。袴である事をいい事に、足を広げて座っている。どこから見ても童子そのものだ。
「あんな動きにくい格好で、山は降りられないもの」
ふふん、と茶々は得意げに笑む。
傍から見れば、若い男女二人が逢瀬をしているような画だ。だがよくよく見ると、片一方は少女に見える青年で、もう片方は童子の格好をした少女で、と、てんでちぐはぐなのだが。
露草は両足を抱えるようにして座ると、川面に目を向けた。
「茶々と会うのは久しぶりだな。驚いたよ、式神が訊ねて来た時は」
「そうね、なんだか急に、露草に会いたくなったの」
「………鉦靖様から、連絡があった?」
露草の問いに、茶々は苦笑を返した。
「お父様は、何とかしてあたしと連絡を取ろうと必死よ。いつも通り無視を決め込めばいいだけ。………だったはずが、今回はちょっと厄介でね。昔馴染みに、家を訪ねてこさせたの。安部清明がくれたとか云う、呪符を持たせてね。おかげで結界は破られるし、狛はただの犬っころに成り下がるし、散々だったわ」
少し離れた所で、盛大なくしゃみが聞こえた。
茶々はチラリとそちらの方に視線を向けると、やれやれと肩をすくめて見せる。
露草はそんな茶々の仰々しい仕草にひと笑いすると、息を吐くように呟いた。
「お互い、身内には苦労するね」
「……本当にね」
露草も、元はさる藤原の屋敷の跡取りだ。
茶々とは遠い親戚に当たる。
双方、昔ながらに、常人には見えない物を見た。露草の噂を聞きつけた鉦靖が、茶々の話し相手にと彼を屋敷へ招いたのが出会いだ。
茶々に見える物が、露草にも見えた。幼い二人が仲良くなるのに、これ以上の理由はない。
だが茶々より僅かに年上だった露草は、十五になる間際に家を出て、姿をくらませた。藤原の名を捨て、ここで露草として生き始めたのだ。一間置いて家に反旗を翻した茶々にとっても、露草の件は大きかったのかも知れない。
彼もまた、身内には受け入れられなかった。
それも、実の両親に。
山荘に引き篭もり、自由が利くようになって、すぐに茶々は露草を捜し始めた。
大活躍したのは狛だ。彼は犬ならではの探索方法で、幾日も経たないうちに、匂いを辿って露草へと辿り着いた。
おかげで二人は、こうして時折会っては、お互いの近状を語っている。
「昔馴染みって?」
「露草は覚えてるかしら? 昔、帝の影の人を、お家に囲って看病した事があるの」
「ああ。 ――茶々の初恋の人だね」
露草の悪びれない、露骨な表現に茶々はサッと頬を朱に染めた。
あー、とか、うー、とか云った後に、どんどん尻すぼみさせながら、
「そういった事も……あったわね」
茶々は視線を泳がせる。
「あの時の茶々は、水を得た魚のように生き生きとしていたね。傍から見ていた僕も、誰かを好きになるのはこんなに輝かしい事なのかと、すごく心を打たれたよ」
何故だろう、露草に後光が射して見える。
これだから素直なのは性質が悪いんだわ、と、茶々は、ううぅう、と呻きながら、夜露で化粧した地面に拳を打ちつけた。
「黒歴史だわ!」
「黒歴史って」
面を食らったように、露草が瞬く。
彼はくつくつと沸くように笑いだすと、茶々の頭を撫ぜた。猫の毛並みをそろえるように優しい手つきだ。
「本当に茶々は愉快だね。見ていて飽きないよ。………時々思うんだ。もしもあのまま藤原の家に居たら、茶々を娶る事が出来たんじゃないだろうか…てね。それはそれで、最後にいい人生と呼べたかもしれない」
ぽつりと零すような彼の言葉に、茶々はギョッと目を見開いた。
「露草?」
彼は幼馴染として、妹として、茶々を大層可愛がってきた。それだけに、こんな言葉を口にした事は一度もない。まるで弱音を吐くようだ。
露草は月を仰ぐように遠くを見ると、呟いた。
「そうしたら僕も、普通の人になれていただろうか」
そんな彼の姿は、茶々にはあまりにも居た堪れない。
「……何があったの?」
そろそろと手を伸ばして、露草の手の甲に重ねてみる。
すると彼は一瞬驚いたような顔をして、ふわりと微笑んだ。
「恋をしたんだ」
「恋?」
「そう、恋。あの時の茶々の気持ちが、僕にも初めて分かったよ。 ……それにつけても僕は、どうにも一筋縄ではいかない恋を選んでしまったよ」
そう云って口を噤んでしまった露草の言葉を受けて、茶々は思考を巡らせた。しかし浮かんで来たのは、
「お客さん、とか?」
こんな貧相な発想だ。
そんな自分が歯がゆいながらも訊ねた茶々に、露草は嫌な顔一つせず、微笑んだ。
「そう、この路によく来る方でね。でも、あの屋敷の客なんだ」
露草が指先で示したのは、先ほどのお屋敷。牛車が出て来た所であり、女たちの住処である。それが意味する事に辿りついた茶々は、どういう顔をしていいのか分からぬまま、瞳を伏せた。
月を浴びて、河面はキラキラと光輝いている。
ちゃぽん、と音がして、見てみれば、蛙がゆうゆうと泳いでいた。波紋が扇のように美しく広がっていく。
「最初に会ったのは、この河辺でね。その辺りだったかな。この京の夜闇の中で、一人ポツポツと歩いていたんだ」
その時露草は、馴染みの客を見送りに出た帰りだった。
多くの人間は、夜の京を一人で出歩く事を嫌う。それは露草の仲間たちも同じだ。夜の都を職にする者たちでも、ほとんど屋敷の外へは出ず、畏怖とは関わりあわぬ事を常としている。そんな中を出歩くのが、彼の住む屋敷で統領と呼ばれる元締めと、露草。
統領はひっきりなしに客を取っている為、客の見送りの大半を露草が担っていた。
そんな一夜。
「もし、と、声をかけずにはいられなかったよ。何せその人、やたらと色んなものを背負っていてね。人の恨み辛みとか執念とか、両の肩にずっしり乗せて歩いている」
「……へぇ」
「だから僕は、肩に塵がついていますよ、と云って祓おうとしたんだ。そしたら…」
――触らない方がいい。アンタの手が汚れる。
肩に触れる寸前、男の手が、露草の腕を握って止めた。
驚いた露草は、丈の高い彼を見上げる。
彫りの深い顔立ちだった。目も窪んで、濃い隈があるようにも見える。高くて大きな鼻に、分厚い唇。息を呑む程の色男だった。だが、顔色が非常に悪く、頬も扱けている。両の眼は暗く翳っていた。
男は露草を見て、ほう、と声を上げる。
「童にしとくには、惜しい美人だな」
上唇をめくりあげるようにして男が笑った。色男に似合わぬ、下衆な笑い方だ。
この界隈に住んでいると、本当に下衆と呼ぶべき連中を見る機会は多い。だからこそ、露草には、男の仕草が嫌にわざとらしく見えた。
男をポカンと見上げていた露草は、ふふ、と笑うと、男に掴まれていた手を更に伸ばして肩に触れた。
脅すつもりだっただけで、たいして力は込めていなかったらしい。簡単に伸ばせた手で露草は彼の肩を叩き、祓う。
彼の肩の上で、有象無象に蠢く闇。叩きながらも、ずっしりと身体が重くなっていく感覚に、よほど強い念を受けているに違いないと露草は眉を潜めた。それも碌なものではない。恨み辛みや、生きる事に対する執着は、怨念と呼ぶにふさわしい。
この男、どんな人生を歩んで来たらこうなるのか。
う、と、喉を詰まらせるような吐き気を感じた露草が片手で口を覆うと、男は今度こそ露草の手を払いのけた。云っただろうが、と、ため息を吐く。
「ただの人が背負うには、重かろう」
「……よほど、癖のある生を送られて来たのですね」
立っているのも辛い。足元がぐらぐらと揺れているようだ。頭痛とめまい、吐き気。露草はこの手の症状を何度か感じた事がある――瘴気に当てられた時だ。
露草は幼馴染の茶々と違って、友人と呼べる妖はいない。そのため、昔から触れ合って来た世界でも、あまり深くは知らない。目に見えぬ世界の、目に見える部分しか知らないと云うのが言い得て妙か。
そのため、知らず知らずの間に性質が悪い物が棲む場所へ出てしまって、こうして具合が悪くなる事が幾度となくあった。今回もそれによく似ている。
露草の言葉に、男は片方の眉根をあげた。そうして笑い出す。
「はっはっは!」
大きな手のひらで、露草の背中をバンと叩いた。具合の悪い身体が大きく右に傾くも、露草は何とか踏みとどまった。
至極愉快げに男は腹を抱えて笑いながら、窪んだ眼に滲む涙を拭う。
「ただの綺麗な蝶ではないと云う事か。 ………なかなか、嫌味が上手な童だな」
「嫌味と云うか…」
率直に言い辛かったから濁しただけだ。
だが、男は皆まで聞かずとも分かっていると言いたげに、露草の頭を撫でた。
力の加減が分からぬらしく、ぐいぐいと首を下へ押されながら、露草は目を見開く。
頭を撫でられるなんて、初めてだった。
父も母も、露草が人の目に触れぬ物の話をする事を毛嫌いした。ふとした拍子に話してしまえば、有無を言わさず屋敷の奥へと閉じ込める。鉦靖が露草を可愛がるようになってからと云うもの、目に見えて折檻される事こそなくなったが、露草を包む刺々しい空気が緩和する事は、彼が屋敷を出るまでなかった。
くすぐったくて、ほんの少し痛くて、とても暖かい。
「じゃあな、童」
弾むようにポンポンと二度頭を叩いて、男の手は離れていった。視線を上げれば、もう彼の背は遠い。
褪せた紺の直垂に、よれた袴。格好はくたびれているのに、一歩一歩地を踏みしめる姿は雄雄しく、凛々しい。彼の草履に踏みにじられた葉っぱが、ガサガサと音を鳴らした。
腰に挿された二対の刀。その刃は共に長く、先端が地面を擦っている。
「あ、あの!」
露草は、首だけ巡らせた彼の横顔に、息が止まるような錯覚を覚えた。頬が熱を帯びる。心臓の音が嫌に大きくて、息が苦しい。
さっきまで何ともなかったのに。
露草はギュッと目を伏せると、熱くなった頬を隠すように俯いた。
「名を……露草と、申します。 ――あなた様の名は…」
「名を聞くか」
云って、男は少し笑った。
しばしの間黙り込み、
――土蜘蛛。
まるで忌むべき者の名を呼ぶかのように、低く、呟くように名を告げると、男は立ち去って行った。