に、すっかり荒んだ姫君-3
神威と共に見送ろうとした鬼灯に、葛は、出入り口までで良いと断りを入れた。彼が送ってくれるから、と、神威を指す。
屋敷から門までの道すがらは、庭よりかは、幾分か手入れが施されていた。
伸び放題の草花に変わりはないが、人の横ほどの幅で草は刈られ、代わりに石畳を敷いてある。視線を落とせば、むき出しになった土が、雨を含んで濃い色になっていた。土を濡らす雨水が蒸発する温度で、地面ごと煮え滾っているような熱が草履に伝う。
屋敷を出ると、一層と蝉の音が響いていた。聞きなれた鳴き声に、ツクツクボウシが混じり始めている。
そんな中、ほとほとと二人は進んでいる。
「すまないね。僕はほとんど門から出入りしないもので」
と、云いつつ、葛は迷いない足取りで神威の前を歩いていた。
泥だらけの袴を見ていた神威が「いえ」と首を横に振ると、
「この山に来た折、あまりに面妖で興味深い呪が掛けられているので、ついつい解いてみたくなったのさ。するとなんと、山奥に姫が引き篭もっていた。その癖で、出入りはついつい庭からしてしまうんだよ」
至極愉快そうに彼は云う。
神威より随分と背の低い彼は、ゆうゆうと歩いていた足を止め、踵を返すように振り返った。
「見た所、アンタはただの人だね」
「ええ」
ジッと葛が神威の瞳を見据える。
鳶色の瞳に映った神威が、困惑する様を楽しんでいるような、また、様子を窺っているような、そんな読めない表情だ。
ひと時の間、葛はそうして神威を見つめていたが、
「茶々といて、どうだい?」
ふと、訊ねた。
「と云いますと…?」
「茶々といて、あの娘しか感じない世界を前にして、怖くはないのかい?」
怖い、と、神威は何の気なしに繰り返す。
パチリと瞬く様は、初めてそのような事を考えたと、ありありと顔に書いていた。
「特には。 ……ただ、残念には思います」
「残念?」
「茶々様があんな風に楽しく笑っていらっしゃるのに、俺にはそれが、どんな会話をしているのか分からない。あの人がどのような優しい声に耳を傾けているのかも、時折愛しげに微笑まれるその瞳に、何を映しているのかも。茶々様に出来る事をして差し上げたいのに、彼女の世界すら見えていない俺に、何が出来るのだろうかと思うと……残念と云うのが一番適切な表現であり……」
落ち着かぬように視線をさ迷わせながら、
「寂しいような、気がします」
神威は小さく呟いた。
葛は真っ直ぐと彼を見上げていた瞳に、弧を描き、
「いいね。そういう素直な言葉、僕は好きだよ」
「え?」
「言葉っていうのは、呪と深い繋がりがある」
葛は、桜の花びらのような口元に、そっと人差し指を添える。
「僕たちのように呪を学んだ人間は、呪を理解しようとし、使う事によって、様々な活用法を見出している。だけどね、何の力も持たない人間だって、何気なく呪を使っているのさ」
「呪を…」
「そう。言葉というのは、紡いだ端から宇宙に溶ける。そうした宇宙に、人間は包まれて生きている。優しい言葉、素直な言葉、そういう言葉を自然と吐ける人間は、それだけで強い宇宙に…呪に護られながら生きて行く。それは、僕たちのような呪を使う人間とはまた違う、護りの力だ」
だから、と、葛は淡く微笑んだ。
言いかけた言葉をふと噤んで、考え込むように地面を見る。長いまつげが、白い頬に影を落とした。
そんな仕草が、喜んでいるのか、悲しんでいるのかよく分からない。
まるで、花が咲いた事を喜ぶような、散る事を嘆くような。
葛と云う形があまりに綺麗で、その先にある彼の感情をまるで分からなくしている。
そう思えるほどに、ただ、あまりに儚く、美しい笑みだった。
「宇宙がアンタに手を貸すと云うのなら、その枠組みの中に僕もまたいる以上、手を貸さねばなあ」
葛は自分に言い聞かせるような風で、嘲笑と共に云った。
そうしてゆっくりと息を吸い、口の中で呪を唱える。唇に添えた人差し指にふぅっと息を吐きかけると、同様にして、親指にも呪をかけた。その指を神威の両の瞳に当てると、グッと抑えつけてくる。
神威はわっと声をあげて、
「葛殿」
「うるさい。ちょっと黙って」
ピシャリと葛に制され、押し黙った。
彼は引き続き長い呪を唱えると、最後に、神威の耳に息を吹きいれる。
その気持ち悪さにゾワッと背筋が粟立った時、瞼から指が離され、眩しいほどの明かりが瞳に降り注いだ。
「葛殿、これは一体どういう…」
云いかけて、驚いた。
今まで目の前に立っていた少年がいない。跡形もなく消えていた。門前に立っていたのはまるで神威だけのように、ザァッと風が吹いて行く。夢幻を相手に話しをしていたようで、神威はぼんやりとした態で屋敷へと戻った。
屋敷へと戻ると、律儀に入り口で待っていた鬼灯が、
「おかえりなさいませ」
頭を下げて、
「随分と長いようでしたが……。葛さまはちゃんとお帰りになられましたか?」
首を横に傾げた。
神威がぼぉとしていると、
「神威さま」
鬼灯が強く名前を呼ぶ。
ハッと我に返った神威は、夢うつつだと思っていた事すら不思議に思った。確かに葛は目の前にいて話をしていたし、鬼灯だって、葛の存在を認識していた。彼は決して夢幻などではないのに。
まるで狐に抓まれたようだな、と胸の内で笑いながら、神威はああ、と云うと、
「葛殿は帰られたと思う……多分」
言葉尻を濁した。
その点については、やはり自信がない。
「そうですか」
ふうわりと微笑んだ鬼灯に釣られて、足を進めた。
橙色の唐衣の裾を引くようにして歩く彼女の、一歩後ろをついて行く。
すると不意に、足元を何かが駆けた。
「お」
慌てて足を上げると、その何かは神威の足下をテテテと音を立ててくぐっていく。虫か何かにしては、足音が大きい。よくよく見た神威は、我が目を疑った。
茶碗だ。
欠けた茶碗に、手と足が生えている。
茶碗は思い出したように足を止めると、神威を振り返った。一つしかない瞳と目が合う。
『ようやく視えるようになったか、人間』
茶碗は短い腕を組むと、フンッと、鼻から息を吹くような音を上げた。
『これで文句の言い甲斐もあるってもんだ。いいか、お前がちゃちゃちゃを怒らせるから、オレタチはいっつもとばっちりだ。あの跳ね返りをむやみやたらと怒らせないでくれよ!』
ちゃちゃちゃとは、茶々の事であろうか。
相手はまるで初対面という気はないらしい。それ所か、屑々と積もっていた不満をようやく吐く術が見つかったように、
『ちゃちゃちゃが怒るくらいならいい。だけどさ、ちゃちゃちゃとなれば、時々オレタチの事を踏みつけようとするんだぜ。大きな足が、上から降って来るんだ。とんでもない鬼さ! ちゃちゃちゃは!』
次から次へと不満垂れ流しだ。
神威が呆気に取られたまま聞いていると、
「あら、まあ」
と、鬼灯もまた驚いたように、茶碗と神威を交互に見ている。
「どうして神威さまに付喪さまたちが視えていらっしゃるのかしら?」
『知った事か! だが、これでようやくコイツの足に踏みつけられる恐怖に怯えなくてすむってもんさ!』
「ですからそれは、付喪さまたちが上を見ずに走ってらっしゃるからですわ、と、何度も申し上げたでしょうに」
『気をつけるべきは人間。忌むべきは人間だね。オレタチがどうして、たかが人間のために上を見て走らなくちゃいけないのだ』
云うが早く、茶碗は一目さに暗闇へ向かって走って行く。
『人間なんて嫌いだー』
と云う声が、捨て台詞のように聞こえて来た。
鬼灯は肩をすくめると、
「お許し下さいね。今この屋敷にいる付喪さまたちは皆、人里に愛想を尽かされて、移住してきた方たちばかりですの」
頭痛を抑えるように、こめかみに手を当てる。
「……そうなのか…」
人が嫌いだと云うだけの何かが、彼らにもあったに違いない。
鬼灯は、深く追求しない神威にホッと安堵した様子で、細い指を絡めた。
「茶々さまは、そういったものたちに弱いのです。薬師丸と狛を初めとして、この屋敷で暮らすのは、皆茶々様にお心を救われた妖たちばかり。……かと云って、人里で暮らせなくなった妖をどんどんと引き取って行くうちに、気がついたら」
云い終わらぬうちに、ドドドドドドと屋敷の奥から多くの足音が響き渡り、
『ちゃちゃちゃの機嫌が悪いぞー』
『逃げろー』
と、大量の付喪神が駆けて来る。
茶碗やら、茶器やら、瓶子やら、鏡、櫛まで、いたるものに手や足が生えていた。それらは群れを成すようにして廊下いっぱいに広がっている。
ドタドタと足音を立てながら、鬼灯や神威を器用に避けて行く彼らを見下ろして、鬼灯は困り果てた調子でため息を吐いた。最初の列から最後の列になるまで、随分と時間をかけて彼らが通りすぎるのを眺めた後、ポツリと。
「手に負える数じゃなくなっていましたの」
なるほど、確かに多い。
神威が聞いていた足音は、付喪神たちのものであったようだ。
これでは足音がうるさいはずだ。
妙に納得しながら、付喪神たちが去って行く所を目で追い、再び屋敷の中を進みだすと、ここ何週間で見慣れたはずの屋敷がまったく違う姿をしている事に、次から次と驚かされた。
客間の手前にある屏風に差し掛かった折、美しい女とすれ違った。うっとりと見惚れる程に綺麗な女は、神威を見ると、着物の袖で唇を隠しながら妖艶に微笑み、小さく頭を下げて横を通り過ぎる。
「あれは?」
「屏風の方ですわ。ああして、恋しい方の元へ通われておりますの」
どうりで屏風に描かれた絵姿によく似ていたはずだ。
あの絵が描いたり、消えたりしていたのではなく、やはり女が出たり入ったりしていたのか、と、神威は彼女の姿がなくなった屏風をマジマジと見つめる。
「……時折、悲しんでおられるのは?」
「恋しいお方に袖にされているのですわ。 ……ああでも、誤解されないで下さいましね。かの方も時々会いに来られるのですが、とてもお優しい、愛情深い方ですの。きっと、恋の駆け引きというものですわ」
年頃の女性としては、憧れる部分が多いのだろう。
鬼灯は頬を朱に染めながら、ほう、と熱の篭った吐息を吐いた。
「恋の駆け引き、ね」
神威が少し考え込むようにして呟くと、
「茶々さまと神威さまは、そう云ったのが苦手なように見えますが」
茶化すように云って、声を上げながら鬼灯は笑った。
笑うたびに、彼女の長い髪が唐衣の上で踊る。
普段すました風をしているだけに、子どもっぽさが一際目立つ仕草であった。どこか茶々の笑顔に似ている。
神威もまた笑いながら、
「確かに俺は苦手だな。 ……茶々様も苦手そうだ」
相槌を打つ。
すると鬼灯は神威に向き直り、そっと両の手を取って握った。淡く微笑む。
「神威さま。茶々さまは、あの頃のままですわ」
「……鬼灯殿?」
「茶々さまはお優しすぎるのです。負った傷、背負うもの、その全てに心を痛めてしまった……そうして、自分でもどうしていいか分からなくなってしまっている…」
鬼灯は寂しげに、神威の手を握り締める。
人のぬくもりとは遠い、ひんやりとした手の平。
狛、薬師丸同等、彼女もまた、人あらず存在なのだと云う事を強く感じさせる、冷たい肌。
「茶々さまはきっと、いつだって泣いていらっしゃいます」
ぽつり、ぽつりと鬼灯は云う。
胸の中に絡まっている糸の、ほどき口を探すような慎重さで、
「だのに、泣く事にも疲れてしまったのですわ」
絞るように出す声は、痛みを堪えるそれとよく似ている。
「人に付けられる傷を、人に付けられた傷を……わたくしたち妖が癒す事が出来たなら」
嗚呼、と、鬼灯は耐え切れなくなったように両手で顔を覆った。
「茶々さまは、どうして人なのでしょうか」