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きみおもふ  作者: 豆蔵。
2/13

に、すっかり荒んだ姫君-1

 日が高く昇っている。

 雨が降る前兆なのか、ムッと蒸すような暑さだ。

 茶々は簀子の上に座し、空を見上げていた。こちらは晴れ渡っているが、都の方からどんよりとした雨雲が伸びて来ているのが見て取れる。一刻もしない間に、たちまち雨になるだろう。

 そんな天を見ながら、

 「嫌な予感がするわ」

 ポツリと呟いた声は風が運ぶかと思いきや、部屋の奥から応答があった。

 「確かに、よろしくない雲行きですね」

 元は客間として使われていた、だだっ広い室内には、どんなに陽が差し込もうと、端から端まで光が行き渡らない。そのため、部屋の四隅は常に暗く翳っている。声はそこからあった。

 茶々は驚いた風もない。

 また、反対の隅からも声がした。

 「風が湿ってやがる。こりゃぁ、一雨くるぜ」

 が、その声には何を思ったか、茶々は視線を下ろすと、身を捩って背後へ首を巡らせた。ついでに、唇をヘの字に曲げる。

 「そう云う意味じゃないのよ、(こま)

 「へ? 違うのか?」

 素っ頓狂な声の主は、ズルズルと音を立てつつ隅から出て来た。昼寝をしていたのか、伏した体勢のまま両腕を前へ前へと出し、腹這いになって進む。

 「てっきりオレは、天気の話かと」

 青年だった。キッチリと結い上げた髪に烏帽子(えぼし)を被り、紫色の(かり)(ぎぬ)を纏っている。まるでどこかの神官のような出で立ちだったが、そのわりに、随分とずぼらな振る舞いだった。品性の欠片もない。

  それを平然と受け入れている茶々の代わりにたしなめたのは、暗がりより聞こえるもう一つの声で、

 「行儀が悪いですよ、狛。そのような振る舞いを姫の前でされては困ります」

 苦言し、衣擦れの音をさせた後、陰から姿を現した。

 こちらは身の丈の高い男だ。腰の下まで、銀にも近い白髪を垂らしている。その先端を、ちょこんと布で縛っている様は動物の尻尾のようであり、たくましい男に似合わぬ愛嬌があった。薄い唇に、高い鼻筋。誰もが見惚れるような絶世の美男を形取っているが、双方の瞳が、大きな刀傷によって塞がれている。顔の造形美を断ち切るかのように、長く、深い、生々しい痕だった。おそらく、一寸の光も見えていまい。

 しかし彼は杖に頼らず、真っ直ぐとした足取りで縁側へと歩いて来た。

 ふふふ、と、思わず声が零れてしまう笑みを浮かべる。

 「ただでさえやんちゃな姫君がまたよからぬマネを覚えては、ますます居た堪れないと云うものです」

 「…ちょっと、それどういう意味よ、薬師丸(やくしまる)

 突然引き合いに出された茶々は腹を立てるが、当本人は至って涼しげに、

 「言葉の通りですよ」

 と、笑みを深くするばかり。

 口では勝てない。茶々は抗議も程ほどに庭へと視線を戻した。

 庭は、野草や花々で溢れている。

 青々とした背丈の高い草や、(えの)(ころ)(ぐさ)を初めとし、メハジキ、桔梗、鬼灯が郡を成すようにして咲いていた。草陰に隠れて見えない所にも、小さな花々で溢れている。唐塀には、牡丹蔓が這っていた。今はもう葉となってしまったが、桜に梅もある。草花を分けて行かなければならないが、少し歩いた所には池もあり、蓮が花を浮かべていた。

 草の青臭い香りが、花の甘い香りが、入り混じったように夏のかぐわしい匂いを届ける。吸えば、胸が満たされるような空気。

 様々な野山から好きな草花を土ごと集めてきているようであって、人の手など必要としていないように鬱蒼と咲き茂っている庭を前にしても、茶々は苦い表情を崩さない。

 眉間に皺を寄せたまま、

 「好くないものが、来る気がするのよ」

 吐き捨てるように云った。

 「つっても、大概のものは結界で防がれるだろうよ」

 狛は、どこまでものんびりだ。

 人なら迷う。悪しき者は麓へと返す。害のある妖ならば結界によって阻まれ、それ以上こちらへは進めない。これが、屋敷を覆っている茶々の呪だ。

 今までたった一人を除いては、見事に功を成してきたこの呪が、そう簡単に破られるとは思えない、と、狛は思う。

 「そんなに心配なら、塩でも撒いたらどうだ?」

 すると薬師丸が、

 「姫。塩を撒かれるなら、早めがよろしいかと」

 すまし顔で云い、意味深な彼の言葉に茶々と狛が小首を傾げた時、ふと、風向きが変わった。ざあっと音を立て、吹き込んできた風に草花が大きく揺れる。茶々の髪をも靡かせた。

 「これは…」

 まるで屋敷を包んでいる何かに、風穴が開いたようだ。

 何か、の答えは、いとも簡単に導き出される。

「結界が破られた…!」

 茶々が弾けるように立ち上がり、狛は四つん這いのまま、威嚇するように、低く唸り声を上げた。薬師丸は耳を澄ますようにして宙に意識を向けている。

三者三様に天を睨んでいると、廊下から、

 「茶々さま。お客様でございます」

 襖を開いて顔を覗かせたのは、二十歳そこそこの女だった。

 橙色の(から)(ころも)を身に纏い、両手を前について顔を伏せている。今にも消えてしまいそうな、儚げな声だ。

 「客?」

 茶々が怪訝な顔で訊ね返す。

 結界を破って進入してくるものが、そんな殊勝であるはずがない。

 女はそろりと顔をあげると、ふうわりと微笑んだ。茶々の意を汲みながらも、受け流すような姿勢で、

 「神威さまと名乗られております」

 そう告げた。

 沈黙が広がった室内に、ざわっ、と、茶々の毛が逆立つ音が聞こえる。

 しばしの間を置き、

 「帰ってもらって」

 たった一言を茶々は返した。

 「しかし、茶々さま」

 「追い返して」

 「茶々さま…」

 「鬼灯(ほおずき)、あれはもう過去なのよ!」

 鬼灯と呼ばれた女性が、瞳を見開く。

 悲鳴にも似た怒声に、狛はビクリと体を浮かした。一方、薬師丸は事を理解していながらも、成り行きを眺めているような態で、静かに笑みを含んでいる。

 「……過去なのよ」

 続けた言葉は、自分に言い聞かせているようだった。

 打ち震えるように拳を握り締め、唇を噛み締める様は、痛みに耐えているかのよう。

 茶々はそう云ったきり、もう取り合うつもりはないといわんばかりにそっぽを向いてしまった。簀子に腰掛け、庭を見ている。が、それは数秒の事であった。

 「俺だからいいものの、客人を粗末に扱うのはあまりよろしくありませんよ。茶々様」

 突然割って入って来た第三者の声。茶々が見れば、鬼灯の後ろに男が立っていた。

 直衣(のうし)を着ている。藍の直垂(ひたたれ)に、黒の袴。山を掻き分けてここまで来たため、鞭を手に持っていた。本来なら(なえ)烏帽子(えぼし)を被っているはず頭に、彼は何も身に着けてはいない。それ所か髪すら結わず、肩に流していた。

 目があった瞬間、視線を反らせなくなる。

 あの頃の面影を残しつつも、凛々しく、それでいて男らしい顔つきになっていた。涼しげな目元は変わらないのに、顔が少し骨ばっている。体格も随分とがっしりして。

 茶々はハッと目を開くと、我に返ったように視線を逸らした。

 そして、たっぷりと皮肉な笑みを浮かべてみせる。

 「女性の宅に、勝手に上がりこむ方がよろしくないのではなくて?」

 「ですね。少々強引でしたが、影で話を聞いていては堂々巡りのようなので、勝手に上がらせて頂いた」

 「話を聞いていたなら分かるはずです。あたしはあなたにお会いするつもりはなかったし、今もございません。さっさとお引き取り下さい」

 取り付く島もない、言葉の応酬。

 茶々が睨む先で、神威が唇の端を引っ掛けるようにして笑った。

 内心、茶々は少し驚く。

 一緒に過ごしていた時間の中で、彼はこんな意地の悪そうな笑みを茶々の前で見せた事がなかった。

 時は、茶々も神威も変えている。

 それが茶々の心を冷ややかにした。あれ程冷静さを欠いていた心が落ち着きを取り戻す。

 出て行かぬのであれば、追い返せばいい。父の手の者たちのように。

 茶々は小さく息を吸うと、狛へと視線を向けた。

 「狛、神威様を麓までお送りして」

 「は?」

 「首根っこ引っ掴んででもいいから、屋敷から追い出してって云っているのよ!」

 未だに現状が理解できない狛も、茶々が命じた事は分かる。

 狛は四つん這いのまま轟と咆えると、みるみる内に姿を犬へと変えた。

 高い天井に擦れ擦れとなるほどの大犬だ。神威など、覆い被さられるだけで窒息死するだろう。ゴワゴワとした白い毛に、人など簡単に噛み千切れそうな犬歯。ガウッと鳴くだけで、屋敷所か、山まで震える声だった。

 グルグルと喉を鳴らした狛は、地を蹴って走り出すと、牙をむき出しにして神威へと襲い掛かる。

 息を呑んだのは、神威か。それとも茶々か。

 「きゃ」

すぐ傍の襖を破った轟音に、鬼灯が悲鳴をあげる。

その脇を通り抜けて神威へと襲い掛かった狛と神威の間で、バチンと火花が散るような音がした。刹那、電流に弾かれたように狛が後ろへと吹っ飛ぶ。

 「狛!」

 鞠のように転がって、庭まで落ちそうになった狛を止めたのは薬師丸。彼は片腕で、いとも簡単に狛を受けた。くの字になって、腹に顔を付けたまま、狛が、きゃうん、と切なく鳴く。

 『何だよ、一体』

 喋った。

 妖と云う者達を神威は初めて目にしたが、驚かされるばかりの生き物だ。

 薬師丸がトンと押すと、狛はくるりと回って大の字に伸びる。畳み六畳ほどを優に占領した彼を、薬師丸は見下ろした。自然と笑む口元を隠すように、袖で覆う。

 「呪ですね」

 『呪?』

 なるほど。確かに一瞬感じた気配は、呪のものだった。

 ほう、と声をあげた狛に薬師丸は、

 「結界を破って入って来た事を考えれば、不思議な事でもないでしょう。むやみやたらと突撃するのはあなたの悪い癖です」

 笑顔のまま、冷ややかに批評する。そんな彼を見上げた狛は、犬のまま器用に、へにゃり、と情けない顔を繕った。本来の犬なら出来もしない所に皺が寄る。

 『だってよぅ。茶々が…』

 「茶々様の悪い癖でもあります。が、しかし、云われたようにするだけでは、ただの飼い犬ですよ」

 『何だと!』

 「どうしてそう一言二言多いのよ、薬師丸!」

 「……咆える所もそっくりとは」

 『「薬師丸!」』

 仰々しいほど肩をすくめた薬師丸に、茶々と狛がドカンと爆発したような怒声を上げた。

 鬼灯が、くすくす、と笑う。

 いつもこんなに緊張感がないのか。それとも神威が、敵とまでは思われていないのか。判断しかねていると、薬師丸が、光のない瞳を彼に向けた。

 「陰陽師ではないとお見受けしていますが」

 「ああ、違う。だが、これを預かっている」

 懐から出したのは、符。

 茶々はずいっと身を乗り出すようにして符を見ると、げぇ、と下品に舌を出した。

 「何この符。結界破りの呪の上に、護身の式まで宿してるわ」

 薬師丸も感心したように、

 「しかも、面倒な形式を随分と省いている。我流で、ここまでの呪を掛けられる人間はそういませんよ」

 これは太刀打ちできませんね、と、あっさり付け足した。

 「薬師丸」

 「事実ですよ。私が立ち向かった所で、結果は狛と同じかと。それよりも、そこまで強い呪を、一体誰によって携わったのかが気になります」

 「安部清明殿だ」

 さすがの薬師丸も、これにはすっかり驚いたようで、

 「これは、これは…」

 と、愉快気に微笑んだ。

 『安部清明つったら、あれだろ? 最近豪く力を振るってるらしいぜ。浄化した幽霊数知れず。退治された妖数知れず。挙句には、式をどんどん増やしてるって話だ』

 「その安部の者が、何故?」

 むっつりと黙り込んでいる茶々の代わりに薬師丸が訊ねれば、神威は、

 「ある日、賀茂殿の紹介と云って、鉦靖様の屋敷を訪ねて来たらしい。その折、俺にこの呪を持って茶々様の屋敷へ向かうようにと申したそうだ」

 「安部の者が、姫様の事を…?」

 薬師丸が見、寝そべったままの狛が首を巡らせ、鬼灯が唇に手を添えて茶々を見る。一堂の視線を受けた茶々は、腕を組むと、フンッ、と鼻を鳴らした。

 「どうせ、同類憐れむって奴でしょ」

 「茶々様!」

 たしなめた神威とは対照的に、

 「そう云えば、安部のものの母親は妖弧とか噂されておりますね」

 『なるほど』

 薬師丸と狛は、たいした事でもなさそうに話しをしている。

 一人憤った神威を見て、茶々は初めて、笑顔を返した。

 「別に、気にして云ってる訳じゃないわ。ただ……」

 その顔が、みるみる内に嫌悪に変わり、

 「陰陽寮なんて、人間が見えない物を手の内に収めようとしているだけの、収めた気になっているだけの、浅ましい場所よ」

 吐き捨てる。

 何を思い出しているのか、苦しげに胸に当てられた手が、ギュッと着物を握りしめた。

 「人間なんて、切っても捨てても、所詮は人間でしかないのに」

 憎らしや。

 呟いた言葉に、神威は呆然とした。

 なるほど、

 



 ――あんなに素直に世界を見ていた子が、人を嫌い、遠ざけてしまうのが悲しくてならん。




 鉦靖が神威に伝えたかったのは、この事だったのだ。

 以前の茶々は、世界そのものを愛していた。目に見えぬ物も、目に見える物も同等に感じ、好意を向け、慈しんでいた。

 それが今はどうだ。

 目に見えぬ物ばかりを好いて、すっかり人を嫌ってしまっている。

 それでいて、こんなに悲しい顔をする。

 神威は抉られたような痛みを覚えた。刀で斬られるのとはまた違う、心の痛み。

 神威は今にも駆け寄りたい気持ちを律し、背筋を伸ばした。今の彼に出来るのは、茶々を抱きしめて慰める事ではない。

 「鉦靖様の命により、本日から、茶々様の世話役を任じられました」

 茶々の顔色が変わる。

 怒りとも、悲しみとも、怯えともとれる表情を垣間見せた。

 が、次の時には、

 「お断りします」

 と、表情を消して云う。

 「お父様には、ちゃんとわたくしからお断りをお伝えします。あなたは、脅かされたといって山を降りればいい。あなたを憐れみこそすれ、誰一人責めるものなどいませんでしょう。もちろん、わたしの父も」

 「上手い事を云ったとて、帰りませんよ」

 淡白に返せば、茶々は一瞬前の表情とは対照的に、カッと頭に血が上ったように頬を朱に染めた。

 「上手いことって…!」

 「あなたが鉦靖様と連絡をお取りになるつもりなら、これまで幾度となくその機会はあったはずです。ですが、あなたはそれをずっと無碍にされてきた。それを口実に俺を追い出し、鉦靖様とも連絡を取らない。それで元通りだ。護符なら、隙を見て奪えばいいと思ってらっしゃるのでは? 妖では無理でも、あなたなら符に触れられる」

 図星を突かれたらしい。茶々が言葉に詰まる。

 この機を逃さず、神威は捲くし立てた。

 「確かに、あなたの事を鉦靖様から頼まれました。それは認めます。だが、ここに来たのは俺の意思だ。俺は、あなたに会いたくて、あなたの心を取り戻したくてここに来た」

 茶々の瞳が、大きく開く。

 「俺は、何と云われようと山を降りる気はありません」

 今度は唇が、小刻みに震えていた。

 何かを伝えようとしているかのように薄く開く。

 が、寸での所で言葉を取り替えたらしく、彼女はすぅっと冷ややかな笑顔を貼り付けるように、微笑んだ。

 「滑稽ね」

 「どうぞ、お好きに解釈なさってください」

 「………バカみたい」

 「口が過ぎるのは、いささか気にかかりますが」

 当て擦っても、平然と言葉を返してくる神威。

 いくら言い合っても平行線だ。彼は帰らないと云う。茶々が追い出すには、それこそ力ずくで符を奪いに掛からなければいけない。確かな事は、このまま睨みあっていても話しは進まないという事だ。

 茶々は不愉快そうに顔を歪めると、チッと舌打ちをした。

 その様子に、神威は苦笑を浮かべる。

確かにあの頃とは、随分と人が変わってしまったらしい。

優しい言葉ばかりを選んで喋っていた彼女の口から、こんな風に、次から次へと皮肉が飛び出す事なんて想像も出来なかったし、あんなに可憐に微笑んでいた唇が舌打つなんて夢にも思わなかった。

 それでも、




 ――そちの知っておる茶々とはもう随分と違うであろう。




 茶々は茶々だ。

 その気持ちが揺らぐ事はない。

 神威がずっと会いたかった。もう一度お目にかかりたかった、あの少女だ。

 緩やかに微笑んでいる神威の態を、余裕の仕草と取ったのか、茶々はますます眉間の皺を濃くした。

 これ以上顔も見たくないといわんばかりに踵を返して、

 「勝手にすればいいわ」

 と、冷たく吐く。

 夏の風が、彼女の艶やかな黒髪を後ろに靡かせた。

 表情は見えない。が、投げつける言葉は至極淡々としている。

 「この屋敷にいるのは、鬼灯や薬師丸、狛みたいなのばかりじゃない。たくさんのものが棲んでいるわ。……せいぜい、喰われる前に出て行く事をお勧めするけどね」

 そうして、神威が二の句を継ぐ前に、

 「鬼灯、その男をどっか適当な所に追いやって。風穴開けられた屋敷の呪を掛けなおすから、集中したいの」

 有無を言わさず部屋から追い出した。

 連れだって出て行く衣擦れの音が、遠くなっていく。

 茶々が見上げれば、都から一気に雪崩れ込むようにして、黒い雨雲が頭上へと押し寄せていた。とぐろを巻くように黒く淀んだ中心から、ポツリと一粒雨が落ちてくる。

 「…」

 ぽつりと、畳にも滴が落ちた。

 「っ」

 後を追うようにして、雨粒が夏草を濡らす。

 後を追うようにして、滴が畳みを濡らす。

 雨露で濡れる庭を見つめる薬師丸と、さめざめと畳みに染みを作って、小さく震えている背中を見つめる狛は、互いに何一つ云わぬまま、顔を伏せた。

 瞬く間にざあざあと振り出した雨の音に、搾り出すような彼女の声が滲む。

 「何で、今更…!」

 近年稀に見る、大雨であった。


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