涙の粒は。
あたりは既に暗くなっていた。
来週末に受験だというミサキの面接練習に付き合っていたら遅くなってしまった。
今は推薦入試を受ける人達が焦っているので、夏のAO入試で無事大学に合格した私は、周りの友達を手伝うことにしているのだ。
家々の間を縫うように歩いていると、野菜を煮込む匂いだったり、魚を焼いた匂いだったり、そういうものが私のお腹を余計に泣かせる。
早く家に帰ろう。
そう思って、私は久しぶりに近道を使うことにした。
今歩いている場所と私が住む住宅街の間には少し大きな公園がある。
小さい子供があまり好きではない私は、普段は通らないようにしていた。
もう暗くなってるし、人は少ないよね。
そんなことを考えて、久しぶりに公園に入って行った。
まだ、わずかながら子供の声がする。
私は早足で遊具の横を通り抜ける。
ーコン。
本当に、微かだった。
ローファーを挟んでだが、つま先に何かがぶつかったのはわかった。
思わず足を止めて、かがんでみる。
それを拾い上げた。
薄く砂に包まれていた、水色のビー玉。
なんでこんなところに……
そんなことを思うけれど、よく考えれば小さい頃は私もたくさん集めて箱にしまってたなあ。
懐かしくて、手で砂を払いのけるとブレザーのポケットに無造作につっこんだ。
ひんやりと、硬い感触を感じる。
「ヒカリー、帰るよー」
「え〜」
親子の会話が少し離れた場所から聞こえてくる。
なんとなくもう一度、ビー玉を取り出した。
いつからだろう。
私はいつから、誰でもない誰かに「大人」の集団に詰め込まれるようになったのだろう。
高校に入ってから?
就職や進学が近づいてから?
いつからだろう。
私が「子供」と「大人」の境に立っているのは。
いつからで、いつまでなのだろう。
小さい頃、綺麗なビー玉に魅せられてたくさん集めては「宝箱」と名付けたお菓子の缶箱に入れて、それを眺めてうっとりしていた。
中身のお菓子は全て両親にあげてしまった。
ビー玉の居場所を早く作ってあげたかったのだ。
夏になれば、そこらじゅうにたくさんラムネが出回っていた。
シュワシュワが嫌いな私は、さもラムネを飲みたいかのように母にねだっては頑張って飲み干した。
そして傾ける度に瓶の中で歌っていたそれを取り出してまた宝箱に入れた。
小さい頃は「大切な宝物」だったのに。
どこへいってしまったのだろう。
綺麗なものを集めたいことだけがビー玉収集の理由ではなかった。
ビー玉にこだわる理由があったのだ。
ビー玉を「涙の粒」だと思っていたのだ。
水色だったり、透明だったりするその玉は、見るたび私に涙を連想させた。
私は当時頭に数本の花が咲いていたのかもしれない。
「涙の粒を集めれば、きっと世界中から悲しい人はいなくなるはず」
そんなことを考えていたのだ。
今考えれば馬鹿げた話だろうが、当時の私は誰に吹き込まれたわけでもないそのおとぎ話を信じて「ビー玉コレクター」ではなく「世界中のヒーロー」になろうとしていたのかもしれない。
それだけ大切にしていたビー玉は、そういえば、ここ数年、部屋のどこにも見当たらない。
捨ててしまったのだろうか。
「あと1回滑り台滑ったら帰るよー」
「はあい」
いつから、だろう。
1日の終わりが夕方でなくなってしまったのは。
おとぎ話を「本当はありえない」と思いながら読むようになったのは。
誰かの指示に大人しく従えるようになったのは。
従うくせに、悪口をこぼすようになったのは。
笑顔で嘘を吐けるようになったのは。
大切なことを失っていることにもー・・・・
「おねえちゃん」
驚いた。
少し視線を下に向けるとさっき滑り台で遊んでいた女の子だろうか。
目を輝かせて立っている。
「ん、なに?」
笑顔を浮かべる。
が、妙にぎこちないかもしれない。
「それ、ビー玉?」
女の子は私の右手がつまむそれをじっと見ている。
私はそれを一瞥すると、また女の子を見て「そうだよ」と頷いた。
「あのねえ、」
女の子がもじもじとする。
「ヒカリねえ、」
そこまで言うと、女の子は俯いてそれきり黙ってしまった。
「・・・・もしかして、これ欲しいの?」
私がそう言った途端、女の子はパアッと笑顔を咲かせてまたこちらの顔を見た。
しきりに頷いている。
私は制服の袖でまだ微かに残った砂を拭き取って、女の子に渡した。
「おねえちゃん!ありがとう!」
「いいえ。お母さんが待ってるよ。帰ろうね」
そう言うと女の子はバイバイと手を振って元気にお母さんのところへ駆けて行った。
私もきっと、いや確かに、あんな頃があった。
きっともう、集めたものは部屋中探しても見つからないだろう。
あの頃大切だったものが、ガラクタへと変わる。
なんだか、寂しかった。
今、私の周りにいる友達も、未来の私にとってはガラクタになってしまうのだろうか。
逆に、今私のそばで笑っている人も、時間が経てば私をいらない存在へとカテゴライズしてしまうのだろうか。
ーそんなの、嫌だ。
ビー玉はきっと捨ててしまった。
あの頃の宝物はただの石ころも同然になってしまった。
信じていた「涙の粒」も心の奥底で眠ってしまって、もう言葉として外へ出ることはない。
少なくとも、ここからは。
今の大切なものは。
忘れないように、忘れれないように。
ふと、リョウヤの顔が頭に浮かんだ。
別の高校に通っている、同い年の恋人。
推薦入試でバタバタしていると聞いて、しばらく連絡を入れていなかった。
少し、忘れかけていた気もする。
どうしているだろう。
頑張っているだろうか。
ちゃんと眠って、食事も摂っているだろうか。
ストレスを溜めすぎてはないか。
ポケットからスマートフォンを取り出して、悩みながらもメッセージを作成し、送信ボタンは勢いに任せて押してしまった。
邪魔じゃなかっただろうか。
送ってもよかっただろうか。
そんなことを考えて立ち止まったままでいると、着信音がなった。
リョウヤからの電話だ。
前はどうってことなかったはずなのに、久しぶりのせいか、胸が五月蝿い。
「もしもし、」
『もしもし、メッセージ見たよ。ありがとう。正直受験の期日が迫ってて、気持ちが滅入ってたんだ。声聞きたいって思っちゃったよ。』
少し、頬が熱くなるのがわかった。
胸のほうは相変わらず五月蝿い。
「そう。頑張るのはいいけど、無理して溜め込んだりしないようにね。体がダメになっちゃったら本当に大変だし。」
『そうだな、ありがとう。俺の受験が終わったら、一緒に遊びに行こう。どこがいいか決めておいてくれ。』
リョウヤの声が弾んでいる。
そうだ。この感じ。
声を聞いて、リョウヤの笑っている顔を見て、私もつられて笑ってしまう。
私の声もつられて弾む。
「本当に?久しぶりだね。会えるの。楽しみにしてる。ありがとう。受験も、応援してるよ。」
『おう。じゃあ、また勉強戻るわ。本当にありがとう。またな。』
「うん、またね。」
ビー玉はもう、どこにもない。
それはきっと、姿を変えて私のそばにいつも、いつの日も。
失ってはいけない大切な存在としてそこにあるのだと思う。
すっかり暗くなってしまった公園の一角でカエデが鮮やかに揺れていた。