絶滅への道とその対価について
当然のことをあえて初めに言うが、絶滅は、人類によってのみ引き起こされるものではない。かつて栄華を極めたカンブリア紀の生物たちや、恐竜などのように、自然の中で絶滅した生物は枚挙に暇がない。
それでも、絶滅動物と言うとどうしても、人間の為に滅んだ動物達の事を想像してしまう。
例えば、オオウミガラス。ペンギンによく似た海鳥で、乱獲によって絶滅した。
例えば、ドードー。飛べない鳥であり、食用として狩られたほか、人間の持ち込んだ外来生物によって絶滅に追いやられた。
ここに挙げた動物はほんの一例だが、現在も、昆虫や両生類、日本ではウナギなどの魚類について、危機的な状況が伝えられている。
よく、人間の乱獲によって狩られたことが「かわいそう」であり、保護が必要だと述べる声も聞かれる。
しかし、考えてみれば動物が絶滅するのは(人間も含めて)普通であり、食用など、際限なく要求されるものについて、狩りやすい動物を狩ることそれ自体は、人間に限らず、様々な動物の行っていることである。
では、なぜ人間だけが、狩猟を「悪」とされたり、絶滅の主たる原因として邪悪な存在にされてしまうのだろう。
この理由は、人間という生物の「特徴」である、管理する能力の高さに原因があるように思える。
人間という生物には、生物を管理し、支配する能力がある。高い知能と発達した理性、手先の器用さから生み出される高度な文化的発展は、他の生物に類を見ない特徴であるが、それ故に、どの様な環境にも適応する能力を持っている。しかし、それは、際限なく生息域を広げる能力があるという事であり、また、個体の身体能力自体は高くないため、周囲を変容させる力によって、生息域を広げざるを得なかった。
この反動として、人間は爆発的な増加の代償として、管理可能な自然環境の多くを侵略してしまった。
その一方で、彼らは、目的を保護する為に管理する能力も持っている。つまり、彼らには、危機的状況にある生物を、ある程度管理することによって、ある程度その速度を遅くする能力も持っている。それだけに、他の生物よりも、絶滅を回避させる能力も、本来であれば持ち合わせているはずなのである。
勿論、無理なものは無理であるし、人間だけがこのような高度な能力を持っているのだから、保護しなければ「かわいそう」などという自惚れた姿勢を肯定することはできない。所詮一生物に過ぎない人間に、期待するだけ無駄なのかもしれない。
それでも、人間はいつか、この管理する能力と真摯に向かい合う必要が出てくるであろう。現在人間にとって有用な生物だけを地球上に存続させるとしたら、人間の絶滅までの時間は急速に速くなるかもしれない。
無際限な狩猟と絶滅の対価は、単に「出会えない」という事を指すわけではない。未曽有の災害に見舞われた時に、もしかしたら生き残ったかもしれない動物資源の「可能性の幅」を狭めてしまうのである。それはちょうど、人間の遺伝的多様性の低さと同じように、絶滅のロールを早めてしまうかもしれない。
それでも、私見では、今後もたくさんの生物を絶滅させてしまうだろう。何故なら、人間は、所詮「ホモ・サピエンス」でしかないのだから。
ごめんなさいと言えとは言いませんが、せめて思い出してあげて下さいね。




