火葬場のファウスト あるいは、定められた枠組みについて
恐ろしいことに、僕たちの周りには僕たちと同じような人間がいる。
近代以降の急速な技術革新と個人主義の中でさえ、僕たちにできるのは常識の枠内でつましい生活を送ることだけだ。
人類は社会性を持った生物でありながら、各々に個性を作り上げる奇妙な生き物であるが、作り上げるには必ず一定の「枠」が必要なことを認めようとはしない。
社会性の発達した社会においては、個体とは、それぞれが役割を与えられた、固定的な物となる。これを「枠」という言葉で表現することを憚る者も少なからずいるが、この枠内に安住することこそが、我々の唯一の生きる道でもある。
それでも。仮にそれでしか生命を維持できない弱者であっても。この世界はさんざめく思考に満ち溢れている。
食品を食品という枠に定義することの難しさ、また人とアンドロイドを区別する事の難しさ。
ありとあらゆる枠の中に、先人と現生人類の知恵が込められている。
ならば、個人が与えられた枠の中もまた、知性に満たされた奔流となるのだろう。
人類は区別するという知性を持っている。枠組みを作るという知性を持っている。
生と死とその狭間を分けることができる。
そして、自己と他者を分けて認識することができる。
私は思考する、自身の至高へと試行する為に。
彼らは区別する、私と彼らの境界から苦を別つ為に。
火葬場は生と死の境界となる。
火葬場のグレートヒェンは、長くは待ってくれないのだから。