いま一つの区切りとして
物語を書くことは苦痛に満ちている。言葉が繋がらず、他者の批評に満たされ、言葉の棘がない優しい蟲毒に苛まれ続ける。
あるいは、通り過ぎるだけの空気や流水に傷を負う事も少なくない。無関心なままの彼らはある意味、姿を見せない恐怖の集合体のように思えてならない。
牙を剥くのは何も外部の者たちだけではない。自身の中にある演者達がその境遇に嘆き、異なる配役を求めて脳内を這いずり回って喚き散らかすことがある。その結果として生まれた血肉の通らない美辞麗句の、何と浅ましい事か。
高揚感と共に吐露する休日の、微睡みの中で書いた文章もまた、朝焼けと共に色褪せてひどくつまらないものになる。
物語を語る者ならば誰しも、こうした苦痛の中で息絶え絶えに言葉を絞り出すことがあるだろう。
それでも、創作者たちはどうしても、この奇妙な苦痛から逃れる術を持たない。創作者諸兄は御存じの通り、ありふれた有限の為に、世界は創作者を抱え込むには些か狭すぎる。創作者とは即ち、「逃避者」であり、「敗北者」でもあり、「渇望する者達」でもある。
新技術には需要が必要なように、発見のためには不満が必要なように、創作にもまた、欲求が必要である。物語の根底にあるものは常に技術と欲求不満であり、欲求不満は敗北者や逃避者にこそ多く燻った感情だ。
物語は、こうした不満のはけ口としての役割があり、創作とは表現としての役割だけではなく、いわば食事などに近い物がある。行わなければストレスで壊れる人もあるのだろう。
それでも、創作は必要なのだ。苦痛の向こう側にある達成感は、登山で山頂から見下ろす景色を見た時の感動に似ている。言葉に出来ない満足感とでもいうべきものが、とめどなく溢れ出して止まらない。
私もまたその一人である。書き続けることによってしか、自己の苦しみも吐露することが出来ない。
だからこそ、多くの人に読み取ってほしい。ストレスはどこからでも現れ、そのくせ、何もせずして消えるものでもないのだから。そして、もし、今ここに表現することを拒む人がいるのならば、どうか放っておいてほしいと思う。それだけが、創作者にとっての救いなのだから。