信仰と科学の狭間
今も昔も、人は、この世ならざるものを畏怖し、見えないものに怯える憐れな存在である。
恐怖とは、自身の遺伝子を世に残すために組織立って形作られた一つの秩序であり、そこには実在・非実在の別はない。
人間社会における独自の畏敬の象徴といえば、疑いなく神であろう。
神話体系は様々なれど、実在・非実在の証明も不可能なれど、神は人類史上類を見ない長さで、畏敬の対象たる「秩序」として存在してきた。
現代における秩序とは、即ち「科学」と「法」である。科学は組織立って作られたものではなく、自然現象の多くを証明する為の存在として、発展を始めた。
一方で、法は、契約と応報という基本的枠組みの中で、宛ら神の実在を仄めかすような形で(即ち、ありうべき正義が存在するかのように)代行されてきた。
このように解すると、神は法の中に無意識的に生き、科学の中に神は不在であるかのように錯覚する。然し、歴史の中で神と科学がその役割を突然入れ替えてしまったわけではない。
神と科学の過渡期において、たしかに神は科学と結びついていた。
神の言葉が世界の真実を映すように、神の作りたもうた世界を正しく把握するための技法、これが「科学」の出発点であり、現在では否定されようとする信仰に基づく科学である。
神の不在を論じる人は、多くが科学によってそれを否定しようとするが、科学が神と自然の手中にあった時代を棚にあげるものがあまりに多いように思える。
科学もまた神から生じた信仰の一類型と解し得るならば、我々の中の神は、一体どこに「実在」するのだろう。