蜉蝣の記録
ほとんどの昆虫は、一年を待たずにその生涯を終える。星の寿命を思えば、人間の命も儚いものである。
蜉蝣はその最たる虫とされていて、成虫は食事さえ摂らずにその生涯を終える。世界的にも瞬きの間の儚い命として知られ、ギリシャではエフィメラ、即ち一時的な書き物(その時限りのもの)に準えて用いられるそうだ。
ただし、昆虫としては、幼虫の時代は一年から三年ほどとされ、意外にも長く生きる。子供時代が人生の大半を占めると思えば、人間に置き換えると多少は幸せなのかもしれない。
『なほものかなきを思へば、あるかなきかの心ちするかげろふの日記といふべし』
「あることかないことかも分からない、儚いことを記したのでこのように呼ぶのだ」という、藤原道綱母『蜻蛉日記』の一節である。ほんの些細な一代記などと彼女は自嘲気味に語るが、日本における歴史書や神話から、女性個人の思いを綴った『私書』としての芸術の走りは、まさにこの蜻蛉日記から始まったとされる。
一人の人間の生き様を、大量の「堆積物」の中から探り当てることが出来るのは、現代特有の進歩と言えるだろう。科学技術の発達という側面以上に、筆記の教育という、きわめて文学的な教育によって、私達個人の言葉が記録されるようになったというのは、過去の時代には殆ど例を見ないことと言える。
卜部兼好『徒然草』には、多様かつ雑多な出来事の中に、歴史に関する非常に貴重な記述が現れる。
個人の側から見た歴史、即ち生活史の中に見える歴史という観点は、ある偉人の伝承にも劣らないほど正誤の判別がつかない、現代の歴史学においても重要な分野となっている。
語り草となるような偉大な人々から、徐々に生活の中で記した一時的な資料に注目されるようになるわけだが、そうすると、私達個人の書いた記録が、後代に何らかのブレイクスルーを与えるかもしれない。
そう言った時代に、電子の海に散開した記録が残っていくこと、それは困難かも知れないが、紙は一千年も残るわけである。大量の情報の宝庫とされた私達の些細な記録が、電子化に伴って10年乃至は20年で損なわれていくのは、少々悲しいことだ。個人が殆ど読み書きを出来るという、日本歴史上でも貴重なこの時代の、大量の記録が、丸ごと電子機器と共に埋もれて消えていくのは、後代にとって大きな損失となるのかも知れない。
故に、今物書きをする人は、「今を生きること」を後代に伝えるために、書き起こした文章を紙に印刷して保管しておくのも良いかも知れない。もしかしたら、あなたの記録が『歴史』に名を刻むかもしれない。




