歴史と虚構に込めた『祈り』
歴史はしばしば、物語によって誇張され、歪曲されて伝えられる。
我が国であれば、『平家物語』は史実ではないので、その物語通りに史実を読み取ることは困難である。物語は物語であり、誇張であるか、あるいは虚構である。それは変えようのない事実だ。
遠く海を隔てた世界でも、勿論、神話や創作として、歴史的な事件が語られることはある。
古代ギリシャのホメロスによって語られる『イリアス』において、その人間性が顕著に描写されるのは、滅びゆくトロイヤの人々であった。人間と神の壮大な戦いの中で、神とその定めた運命に抗うことが許されない人々は滅び去り、やがてラテン文学の最高峰、オウィディウスに語られる『アエネイス』の中で、トロイヤの英雄アエネイスがイタリアに至るまでを描かれていく。
トロイヤ戦争が地上で起こった出来事ではなく、完全なる神話であるのか、それとも史実を元とした創作であるのかは判然としない。考古学的発見により、神の存在は証明されなかったが、何らかの人為的な破壊行為がトロイヤで行われた事実はあると推測される。ともあれ、神の実在とは別に、人類史には『神の時代』に関する記述が幾つか残されており、この時代の残滓は人類史上でたびたび語り継がれていく。
人々が神を見失っても、神々の審判の時代は長らく続き、私達が人の時代をようやく手に入れたのは人文主義の登場、ルネサンスの時代を待たなければならなかった。もっと言えば、疑問の余地がない人の時代とは、もっとずっと後、産業革命の時代まで待たなければならないだろうか。
神でさえも忘れ去られ、罰当たりにも彼らが新たに『人間の被造物』として作り替えられた現在では、遠く昔に忘れ去られた人間達のことなど、私達に知る術はないのかも知れない。
それでも、日本にはインドを発祥とし、中国から伝来した仏教と、中国で生まれた儒教の精神が、盂蘭盆会の行事へと受け継がれている。既に顔も知らぬ祖先の魂や、見知ってはいるが『私達の被造物』となった霊魂の安らぎに対して、語り掛ける機会は与えられている。神も仏も損なわれた世において、今を生きる人だけが、この「祈り」を執り成して継承することが出来る。
我が国における文化的下地は、決してわが国固有のものではないが、こうした文化が融合して曖昧に交わり、受け継がれる伝統として生き続けている。人肌の温もりを通して、生者に都合よく受け止められた魂の形、即ち歪曲されて語り継がれた歴史に祈ることは、果たして空虚だろうか。文字の上だけに載せられた祈りを受け取ることはおかしなことだろうか。
『アエネイス』を冠する物語を書くのはおこがましいとは思うが、その心は「神の被造物から神を創造する側へと人が移ろった」ことを暗示することに由来する。神の時代から人の時代へ。そして、人の時代から異なるものの時代へ。私はちっぽけな人間の足跡を辿る語り手として、「虚構」の人類史に向けて祈りを捧げる。
それは空虚なことなのだろう。それでも、語り手はその喉を震わせるだろう。




