多面体の正義と偏った私の視点について
私も平和ボケしたものだと痛感したが、目の前で有事の事態が未だ終息していないのに、遠い地で戦争が起こらないとは言えないのである。
ロシア軍のウクライナ侵攻の報を受けて、まず抱いた感想は、そうした過去から受け継がれてきた衝撃であった。
ウクライナの親ロシア派勢力を保護するという主張について、ロシアが相当長い時間をかけて撒いてきた種の果実が実った瞬間なのだろうと思い、明日は我が身と身を震わせた。
日本の領土問題といえば、北方領土、竹島、尖閣諸島だが、特に今回の一件で日本が慎重にならなければならないのは北方領土と沖縄かもしれない。
特に沖縄については、相当に根深い問題で、沖縄は琉球王国であって薩摩藩と関係が深く、また清帝国とも関係が深い。一時はアメリカ領でもあっただけに、「歴史的に」固有の領土としての主張をするために大変な労苦を伴う。
そして、やはり国際化の流れを受けて受け入れてきた者が根ざした後に、こうした武力介入による侵略行動が起こる可能性は(少なかろうが多かろうが)考えていかなければならない。国防を司ることができるのは国家の権利であり、日本という国がいよいよその法律上の立場に対して真摯に向き合う必要が出てきたように思う。
あるいは、再びナショナリズムの時代に回帰していくのかも知れない。今回の大きな騒動で、ウクライナ軍の戦いへ対する覚悟や姿勢が、何とか抗う力となっていることは、注目に値するだろう。
その裏で、私達が本当に注意深く見ていかなければならないことは、国民が一枚岩ではないということだ。
教育を通して国家が望む人材を作ろうとするとしても、人間が触れ、抱えてきた良心と言うものは教育では簡単に覆らない。ある価値観を持つ国の出身者が、それと同じ価値観を持っているとは限らないのである。
この価値観の多様さがここまで明確な形で世界に発信されることは、情報の発信者が個人へと拡大していった現代ならではの新たな流れだろう。
報道をする集団や所属主体の思想に囚われない、個人としての情報の発信者、政治的なアクターが、記号化されずに明瞭な形で主張を発信して公開できると言うことが、私達にかつてとは違った視点での戦争への向き合い方を示唆してくれる。
面の力で攻める経済制裁の強さも今回の一件で明らかとなったように思う。
それでも、経済制裁が「正義」の鉄槌となるとしても、一枚岩ではない国家の所属主体、国民全体に負担を強いていることも頭の隅には置いておかなければならない。正義は無数の面を持つ多面体であり、どの面が正面であり底面であるのかと言う議論は不毛である。正義の名の下の犠牲など、これまでの歴史が無数に証明してきているのである。
こうして、遠い地でリアリティを持って行われる政治的な流れは、私が現代に残したいと筆をとった感覚に一つの実感を与える。出来れば、このような実感は余りしたくはなかったし、手応えというにはあまりにも薄いが、それでも表現せずにはいられないものがある。
鬼気迫る、他人事ではない何か、また後ろめたいほど多く糊塗された虚飾と真実の歴史、継ぎはぎの一面体となった多面体、メルカトルな世界を捉えること。その難解さを表現者として未熟な私がどうにか表現したいと思った。




