現代へ向かう陣痛
人類史上類を見ない悲惨な戦争が続いた20世紀。この時代をベースに物語を紡ぐことは、相当に勇気がいる。
一つの綻びや思想の偏りで、容易に人を傷つけ、また批判を受けてしまうだろう。故に良い人物が良い人物であるという先入観で作品を書いてしまうことは危険で、むしろどこかでその人物へ対する憤りを描かなければならない。それでも私達が人間である限り、無意識的・意識的に、思想の偏りが顕現してしまうことがある。頭を悩ませながら書いているうちにも、必ずそうした綻びが生じてしまう。
長らくこの問題に頭を悩ませてきたが、せめて、その時代、主人公と呼ぶべき人物は設けないべきだと考えて、計画を進めていた。
それでも、主人公は必ず存在する。私は少なくとも、そこに一人の主人公を設けた。その人物は作品に一切登場しない。登場するのは主人公を取り巻く環境と、主人公の歩もうとした道筋、人類がそこへ至るまでの経緯だ。
その為に、150万字を越えるプロローグを書かなくてはならなかった。そして、終幕に至るまでの経緯を、さらに四十万字も書かなければならない。そこから始めて、私の書くべきことが書き始められる。人類の壮大な旅路の一節でさえそうなのだから、人類10万年の旅路を表現するには、人の一生がかかっても多分足りないのだろう。
物書きというやつはエゴイズムの塊だ。誰がどうしてこんな酷い作品を書いたのか、なんて問いは往々にしてある。娯楽として読み進めること、それが大衆文学の基礎にあり、私は役割を終えた存在の残滓で、もっと言えばその搾りかすであって、この200万字を超えるであろう旅路は踏み固められた道、通り過ぎた記憶に過ぎないだろう。
だからこそ、私は人類の壮大な旅路に感謝する。「終わった人」の戯言を聞いてくれる民主主義社会を作った、壮大な人類史に。数多くの犠牲と祝福を抱えた、この遠大な記録に敬意を示して、この物語を書いた次第である。
せめて最後に、水面に映った自分の作品に恋できるように。




