火葬場のファウスト あるいは、労働という病について
毎日を通り過ぎる時間の外側から世界を俯瞰すると、驚かされることの何と多いことか。
外側の人々は生きるための労働に陰惨な表情で向かい、歓喜の表情を貼り付けて客人を迎え入れる。毎日を箱庭で過ごす人々には想像を絶する世界が、そこにはあるのだろう。
火葬場にある巨大な煙突はもうもうと巨大な黒い煙を上げる。そして、黒い煙は、はるかな高みで霧散する。彼らは箱庭へと向かって旅立った、「幸運な」命だろう。その幸運はいずれ何者にも訪れるとはいえ、その幸運を快く受け入れるには時間が必要だろう。
それでも、この世界は余りに、苦行にありふれているように思う。
今日も静かな白い壁の中で、パソコンを開く。青いアイコンにアクセスし、書きかけの文章を読み直す。
深夜特有の吐き気を催す描写や、救いようのない稚拙な文章の数々に辟易し、言葉を練り直す。
練り直す度に脳裏をよぎるのは、こうしている間にも平然と行われる労働の狂気だ。彼らはいかなる罪のためにあのような苦行に苛まれなければならないのだろう。
理想郷の中に蹲る私達のような人間は、何故罪を償う事もしないのであろう。
停止しかけた腕を動かす。バック・スペースを押しすぎる。後退した文章の中に新たな間違いを見つけ、吐き気を催し身悶える。
私は願う、彼らの苦しみが報われる未来を。
彼らは願う、私の見た火葬場の幻を。
その為に、散々書き殴った憐れな駄文を少しでも整えておこう。
火葬場には、グレートヒェンが待っている。