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火葬場のファウスト 絶え間ないピグマリオンに関して  作者: 民間人。
煉獄のナルキッソス
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ネガティブでいこう 後ろ向きだったら、何が悪い?

 毎日のように聞くフレーズがある。「人生を楽しく」「若者は遊んで」「元気に明るく」「自分らしく」……。どれもこれも大いに結構だが、今の僕はどうしても、これらを受け入れることはできない。

 僕は、産まれたことを罪だと思っている。ならば生きることは罰だろう。とすれば労働は苦痛なのは当たり前で、生存のための凡ゆる行為について、煩わしさが伴うのも道理だと思う。

 そのくせ死にたいと思えないのは、自分の罪に罰を縛り付ける桎梏だ。生み出された罪を贖うために、僕達は生き、苦しみ、やがて救われる。救われた先にあるものは「不存在」で、存在しないことによって僕達は何かを考えなくても良くなる。目前の煩わしさは消え失せ、僕達はそれを苦痛なく得るために、数多の罰を受け入れているのだ。

 遊びの後に訪れる寂寞感が恐ろしい。禁欲的であろうとしても、娯楽の欲求には逆らえない。だから最後に行き着くのは、自分が自分の理不尽を吐き出す為の被造物……人はこれを「趣味」という。


 元気でいなければならないならば、明るくいなければならないならば、それは性格の押し付けだ。仄暗い後ろめたさや惰性の無関心に非難を向けている限り、この世界が共同体主義から逃れる術はない。それもまた良いだろう。有害な思想など排斥されて当然だ。例えば、畑に雹を降らせる魔術を使う魔女や、生活のためにドイツ軍人に春を売った女性など。そう言うものを排斥してできた理想郷を、君たちが崇拝する限りは。


 自分を形作るのはなんであろうか?個性とは、否応なく他者からの影響を受けた理性の集合体である。自分らしくある状態とは、凡ゆる経験の結果としての自分ではないか。だとすれば、自分らしくあることは、他者から影響を受け続けることだろう。つまりは、「他人に合わせる事」もまた「自分らしさ」だろう。流行に合わせて自分を変えることが悪いと言える人はおるまい。


 こう言う風に思うので、僕が出した結論は以下の通りだ。

「彼らの言う通り自分らしくネガティブでいこう。陰険で、悪辣な吝嗇家、非社交的で非論理的で、反出生主義的で理性の欠落した人間でいよう」と。これが僕を明るく楽しくさせてくれると言うことのようなので、その通りに生きることにする。よって、ここではポジティブに、ポジティブな言葉は語らずに、ネガティブな言葉を主として語ることにしよう。良い事も悪く、悪いことはなお悪く。これが僕の出した自分らしさの本質なのだから。

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