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火葬場のファウスト 絶え間ないピグマリオンに関して  作者: 民間人。
煉獄のナルキッソス
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自動機械と支配のエッセンス

 自動機械について触れる時、概ねが人間が過度に彼らを支配するものか、彼らが人間を過度に支配ないし迫害するものかに分類できるように思う。私が考えるところでは、人間は彼らに自然と支配されていくのだろうと思う。

 これは、人間が愚かになったという意味では勿論ないが、少なくとも、私たちは既に機械に活動の多くを支配されてきているように思う。


 空想科学においてこの問題に触れるならば、私は、意識に関して様々な思考を巡らせなければならない。人とはどこまでを指すのか、或いは、意識を持つとはどこからを指すのかについて検討していった結果、空想科学には著者の、各々の思索の結果が現れてくる。自動機械を好意的に見るにせよ、否定的に見るにせよ、一先ずは、彼らの立場を取り決めなければならないからである。


アイザック・アシモフが彼の作品『われはロボット』で示した「ロボット三原則」は、現代にいたるまで空想科学の重大な原則の一つである。

 しかし、私がロボット三原則に対して出した結論は、非常にすっきりしないものである。人を守り、忠実に仕え、そして自己を守るという規則を理性的に守ろうとするとき、自動機械は既に人間の一側面を有している。一方で、この原則に従わずに生きる自動機械は、もはや人間と何らの差異も無い。機械的な人間性と理性的な人間性双方を有する自動機械は、では人間とどう違うのだろうか。

 これらは人種の対立とも重なる。自動機械を人と見立てる時、かつての差別問題のような普遍的なテーマに落とし込むことも出来ただろう。つまり、自動機械たちを人間とみる時、最後に行きつくのはこの差別問題との折り合いをつけることになっていく。そして、その物語を書くならば、自由主義社会に生きる私が出せる結論は、一つしかなくなってしまう。


 しかし、今回は、私はこのアプローチをとらないで一つの結論を示したかった。何故なら、日本における支配の態様を見たとき、純粋に読み取りたいことは、人種による差別ではなく、内部の社会構造に基づく緩やかかつ強烈な「支配」についてであったためだ。

 これをかくときに必要な前提が、自動機械は「理性的」であり「合理的」であること、そして縦社会の日本の構造を当てはめたとき、自動機械によるこれらの決定が人間を「支配」し得ることである。これらの結果、私が出した結論は、人間はより機械的に、機械はより人間的になるのではないかというものである。


 いや、この言い方は正確ではないだろう。人間は既に、社会の中で機械的に生きている。私は機械的であり、多くの労働者のように生きられない。そう言う事である。

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