煉獄のナルキッソス 流れゆく繋がりの連鎖
長らく、私たちは、「金はすべてではない」と、教えられてきた。その一方で、「金の切れ目が縁の切れ目」だとも、教えられてきた。ある人物に対して報いる時に、その人物が何を自分に齎してくれるのか。これは、長い間私達に与えられた一つの課題である。自分が相手に何を施す事が出来るのか。それはある種の対価を支払うことでもある。例えばその一つが金である。つまり、金が全てではないという言葉は正しいと言える。私たちには自分の手持ちの金を支払うという選択肢があるのだから。
ギリシャの金融危機は聞くに新しい話題であったが、ギリシャは彼らから借り受けた金を人質にとるという選択肢があった。実際、多くの協力的な国の中には、そうした自分達の利益を守るために、ギリシャへの支援を行った国もあるだろう。
金は新たな金を生み出し、それらは水流のごとく流れ消えていく。今、現代に生きる私たちは、資本主義の危うさや金の恩恵を多く知り、それを基に行動している。金はいつも誰に対しても平等を齎し、金が流れていく事によって、私たちの喉は、腹は潤う。
それでも、金の繋がりを空虚なものだという人がいるだろう。流れていく繋がりなど、無意味だという人もあるだろう。では、この世に絶対不変の繋がりなどあるだろうか?
私は、残念ながら、ないと思っている。友人、恐らくは家族でさえ解消され得る。それらは私の記憶の一部を占拠していたがその一部は損なわれ、私は今、対外的には非常に孤独であると言える。
私たちは齎されることに飼いならされた「自由」の奴隷であり、「金の亡者」である。そして一様に孤独であり、永遠の繋がりという空虚な神話を信奉する狂信者である。
私は、今、再び筆を置いた。永遠に続くように思われる執筆も、時折断絶をしながら繰り返される。時には、先すら見せられない「終わらされた」作品があるのだろう。私たちは永遠のつながりを築くことが出来ない。
ならば、この黄金の鎖を、下賤なものと唾棄することは出来ないのではないだろうか?
私は、金の繋がりという空虚な妄想を一部信奉する、狂信者なのだろう。




