ピエール・コーションの見た『聖女』
英雄に脚色がつきものである事は、我が国でも『信長公記』に見られる通りであるが、人間は、付けた尾ひれの大きさよりも、ある人物の物語性に強く惹かれるものなのだろうか。
フランスの英雄と言えば、第一にナポレオン一世かジャンヌ・ダルクが挙げられる。ナポレオンは一歩間違えれば「フランス」の英雄でなかった可能性がある(と言うのも、コルシカ島がフランスに債務の担保として渡されたのが1768年、ナポレオンがアジャクシオに生まれたのが1769年だからである)が、多くの功績と罪科を各地にまき散らし、現在まで続く「革命の精神」を広めた。彼以降、戦争は少しずつ身分の低い者達へ与える影響を強くしていき、彼は私達が知る「戦争」への最初の足掛かりとなった。
『オルレアンの乙女』として激動の百年戦争を駆け抜けたジャンヌ・ダルクの悲劇もまた、人々の心を震わせるに足る要素を持っている。確固たる意志を以て祖国の為に戦い、奇跡を起こした救国の英雄は、今なお強い支持を得ていると言えるだろう。
……しかし、ナポレオンがそうであるように、彼女が生きた当時、その英雄性は局所的であったと言わざるを得ない。フランスと熾烈な戦いを繰り広げ、本土を戦場としないままで圧倒的優位を保っていた当時のイングランドにとって、彼女は『災害』以外の何物でもなかった。何故なら、晴れてフランスを完全に掌中に収める事が出来るのではないかと言う程、オルレアン包囲戦が重要な戦争だったからである。
ブルゴーニュとイングランドの挟撃に苦しむフランスを救った英雄の最期を決めたのが、宿敵ブルゴーニュ派のボーヴェ司教であったピエール・コーションである。彼はジャンヌのオルレアン開放を機に、ボーヴェからも逃れる事になった。嵐のようなジャンヌの行軍はイングランドとブルゴーニュを恐怖に陥れ、彼らの支持者から大いに反感を買った。歴史にifなどないが、もし仮に百年戦争がイングランドの勝利として歴史に刻まれていたならば、彼女は英雄ではなかったかもしれない。
ジャンヌの異端審問の裁判長に選ばれた、ブルゴーニュ派のピエール・コーションは、彼女の失言を誘い出すために多くの尋問を行った。科学捜査などと言う概念が殆どない当時の裁判は、決闘、復讐、或いは尋問や拷問に基づく自白が主たるものであり、現代よりも遥かに発言の重みが大きかった。故に、ピエール・コーションはあくまでジャンヌに非があるように、慎重に(陰湿に、と言う言葉を使う者もあるかもしれない)言葉を選んで彼女を「教会に服従しない者」として処分する事に決めた。
権力者であるピエール・コーションが農民の娘であるジャンヌ・ダルクに対して行った数々の行為について(一説には、ジャンヌが牢獄で男装をしたのも、彼の差し金ではないかと言われている)は、到底褒められた事では無いが、歴史と言うのは褒められるものではないし、そこには徹頭徹尾権力が携わる事も否定できない。私達が今見ている世界も、「ジャンヌ・ダルク」から視点を動かしてしまえば、違う景色が見えてくる事もあるだろう。




