他人を批判することの虚しさについて。
僕たちは無意識に、相手を傷つけてしまう事がある。誰かの事を思って行った行動が悪い結果になったり、自分の不注意で他人を傷つけてしまったり、或いは、自惚れで身を滅ぼしてしまったり。
毎日、毎日、誰かを傷つけて、批判を受け入れて生きる人がいて、仕方ないって思ってしまったら、自分の中にある善意の隙間は簡単に埋まってしまう。
そう言う心理について、人間が思うのは、人間が何らかの形で仮想敵を求めているからなのだろう。
仮想敵とは、本来交わることのない世界にある物であってもいいし、現実に出会うことのできるものであってもいい。
そして、何故それらが私たちに必要なのかといえば、それは自分の正当性や判断の平等性を訴えたり、自己の価値を相対的に高めたりする事に役立つからだ。
先日、SNSにおいて、いじめに関するツイートを見て、非常に感心した。
曰く、いじめとは、悪人によって生じるのではなく、善人と悪人の別なく生じるものだ、と。
この言葉はまさにその通りで、魔女狩りも、イデオロギーも、聖戦も、善意から始まり、人々を様々に変容させてしまった。その「正義」を狂気という人がいるのならば、僕たちは皆例外無く狂人だ。
僕はいじめを受けていた時期が小学校、中学校とあったが、自己を否定する論理を完成させる為に実に役立つ経験であった。そして、僕をいじめていた人々がどうなっているのかと言うと……彼らは、実に立派な社会人になった。社会に出て、立派に働いて、僕よりもきっと良い成績を残している事だろう。
善意に基づく対立と迫害と無理解というのは日常に蔓延っており、それらは人物の主語を大きくする事にも役立つようだ。
男は、女は、若者は、子供は、普通は……。区別のない曖昧な定義の中で、彼らはそういうレッテルを貼ることで自己を正当化してきたし、これからも続けていくことだろう。
この言い方は正確ではないかもしれない。僕もまた、このような一人である事をきっと認めなければならないから。
疾く、疾く。地獄の無い世界を、と。罪深く忌まわしいこの魂に救いを、と。




