センス・オブ・ワンダーの終焉
仮にこの世界から空想がなくなった時、空想科学という分野はどのような進化を遂げるであろうか。空想科学の黎明期には大砲で月に着陸する事が出来たが、今はそれが出来ない。空想科学とは科学に空想の余地があるときに初めて成立するものであり、例えばジュール・ヴェルヌの時代に人間は月に行っていないし、行けるはずもない。私たちはそうして、科学の隙間を縫う事で、空想科学と言う分野を発展させてきた。
初期の空想科学の面白い所は、現代的でない人力の重要性である。空想科学映画の古典、1927年放映のフリッツ・ラング監督による「メトロポリス」では、階級闘争と言う当時の新たな価値観について触れて行くにあたって、人間の労働力を非常に重視している。蒸気と巨大な「機械」の運用には未だ人間のない社会が考えられなかった時代、未来の技術は人間無しでは語れなかった事だろう。
しかし、時代が進むにつれて、空想科学の本質は徐々により人間の価値について知見を深めていく。科学の発展に従い、人間の手を煩わせる技術が不要になっていくと、私達は決まって「労働から排除される」。資本主義一強の時代にあって、私達は階級闘争と科学技術を結び付ける事をしなくなり、新たなる階級闘争、人間と機械のパイの取り合いについて深堀せざるを得なくなっていった。空想科学が普遍的なテーマを取り扱うと言った事があったが、それは、空想と科学が常に宥和的であるからなのかもしれない。現に、私達のあたりまえは既に空想科学の中で語られてきたものであった。
そうして科学技術が発展していった先に、私達の知る空想科学は、いずれ空想でも科学でもなくなっていくのであろう。それは、私達が大砲で月に行けないのと同じようなもので、悲しい事でもないし、喜ばしい事でもない。
空想科学に限らず、小説が世相を表すというならば、今の小説は丁度「センス・オブ・ワンダー」が終焉へと向かって行く途中なのだろうと考えている。
センス・オブ・ワンダーとは、自然や作品に触れた時に受ける、不思議な感動の事を指す。私達が当たり前の感情として捉えられる「感動」ではなく、異化された対象を捉える時に感じる、非常に言語化しづらい「不思議な感動」の事である。それが損なわれるという感覚は、私達が昨今よく目にするようになった作品群を見るとわかると思う。それらは余りにも既視感があるし、既視感と安堵感の中で初めて成立する。その中の些細な違いを言及するのが、私の使命だと考えてはいるが、そこにセンス・オブ・ワンダーは認められない。強いて言えば、それは単なるワンダフルなセンスである。
これが損なわれるという事は、科学と空想が乖離したからともとれるし、空想が科学を凌駕したからだともとれる。
もし、この不思議な感動が完全に損なわれたとしたら、この世にあるあらゆる空想科学作品は陳腐な空想に飲み込まれる事であろう。あまりにも整然とした、「既視感」が資本主義市場の答えであるならば、私は、資本主義と言う差別的あり方について再び考えなければならないと思う。この世界は自由でも平等でも博愛でもなく、「金」で計算するべきなのだと。彼らはきっと、「個性」を盾にして、自分達の空想をそう言いたくないだけなのだと。
「センス・オブ・ワンダー」を描く事が苦手な一作者として、「センス・オブ・ワンダー」の喪失はこの上ない遺産の喪失のように思える。私はだから、科学の発展に歯止めがかからない事を願っているし、その為に科学者は細やかな部分に目を向けて欲しいとも思う。今の空想科学が空想でも科学でもなくなったのちに、まだ空想科学を語る道が続いてくれるように。




