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火葬場のファウスト 絶え間ないピグマリオンに関して  作者: 民間人。
煉獄のナルキッソス
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「イサクの燔祭」と物語の終焉

 創作活動に関する二つの問題がある。一つは、物語を書くことを途中でやめてしまう「エター」である。

 そして、今一つは、作者乃至読者によって生かし続けられる「愛される不死の作品達」である。

 私達は概して臆病かつ独占欲が強く、また強情で貪欲である。人間達はより多くのものを求め、より優れた時間を、より恵まれた環境を、より多くの便利な品々を追求する事によって発展を遂げてきた。

 それと同じように、我々は概して不死を求め、或いは不老を求めて足掻く。それはまるで、永遠の生によって全てが好転すると信じているかのように。

 同じように、自分たちの子供を、作品を作る時、人々は概して彼らの永遠を求めるか、或いは彼らの永遠を求められる。これこそが、愛される不死の作品達であり、そこには愛も貪欲も入り混じった人間的な感情が渦巻いている。


  しかし、物語はどんなに不死を望まれても、いつかは死ななければならない。物語は永遠に継続する事を約束されない。しかも、それは基本的に、親よりも短命である。

 人の死を悲劇と言うならば、物語の死も悲劇であるにも関わらず、私達は、それを悲劇としてではなく、通過点として捉える。それは何故かと問われれば、やはり私達の暮らしは続いていくからであるし、そこに悲劇性が伴っている感覚も、彼らの世界の継続と言う不文律によって補われるからである。


 では、物語が終わらせられなくなった時、何がそれ程問題なのだろうか。永遠に続く物語は素晴らしいのではないだろうか。

 答えは、それは物語として破綻しているからである。仮にこの世にそれを永遠に破綻なく作る事が出来る者がいたとして、それによって不死が達成されたとしても、その物語はいずれ輝きを失うであろう。何故なら、その物語を永遠に続けることによって、物語は「普遍性を得て特別性が損なわれる」ためである。

 あらゆるものが例外となった世界を、私達は知る事が出来るだろうか?あるいは、それらが規則に従って例外を作る事によって無数の例外が生まれた時、世界の例外とは何であるのだろうか?物語は継続する事によって常に矛盾を生み出し続け、その子供自身のアイデンティティを崩壊させる。それは同時に、作者を拘束し続けた枷となり、作者自身を食らおうとするであろう。このようにして永遠の生を与えられた物語を見て、私達は果たして永遠に快感を感じられ続けるのであろうか。

 答えは否である。だからこそ、物語は、死ななければならない。永遠の輝きとしてさんざめく為に。或いは、作者の精魂を食らいつくさぬように。


 作者は我が子を殺す事を運命づけられている。それは紛れもない事実である。もしそれを拒むならば、その人物は物書きを名乗る資格はない、とすら私は考える。何故ならば、それは物語の断続性を否定する事に他ならないからである。では、何が重要なのであろうか。

 わたしは、それを二つの逸話に準えて考えている。それが、「我が子を食らうサトゥルヌス」と、「イサクの燔祭」である。

「我が子を食らうサトゥルヌス」とは、ローマ神話における神サトゥルヌスが、自らを子供が殺すという予言を恐れて生まれた子を食らい、最後にはその子に殺されるという逸話である。即ち、物語に飲み込まれることを恐れ、或いは自らの精神的な地位を保つために無理やり我が子を食らう人々を示すものである。そうした人々は物語を何としても終わらせなければならない。貴方の精神を蝕むあらゆる創作を、何処かで打ち切らなければならない。

 また一つの「イサクの燔祭」は、旧約聖書「創世記」にある、不妊の妻サラとの間に授けられた、最愛の息子イサクを神に捧げるように命じられたアブラハムの逸話である。

 彼はその運命を嘆きながらも、自身のあるべき姿、信仰に従って彼の子を神に捧げようとする。最後には神の御使いにその手を止められ、彼らはイサクの代わりに羊を供物として捧げた。

 イサクは父アブラハムの行動に抵抗をしなかったとされている。彼らはそれを命じた何者かに絶対の信頼を置いていたのであろう。

 私達が神即ち作者のもとに子供を返そうとするとき、私達は無抵抗でいられるであろうか。しかし、私達はその見えざる者に従う事で、仮に刃を持つその手を止められなかったとしても、一つの救い、つまり、信仰の証を得る事であろう。信仰深き人々が神の言葉に従って神の御許に送った魂が、果たして呪われることなどあるだろうか?物語はかくのごとく、死するべき時に殺されるべきなのである。


 私達は貪欲で、欲望のために彼らの永遠を願ってしまう。しかし、作者の手から我が子が離れたその時に、私達は必ずその死を娶らなければならない。その時に、私達が生み出した、或いは生み出していく物語は、振りかざす刃に向けてただ、「わが父よ」と言って見つめてくれるのであろうか。その最期の時、最愛の子を殺めなければならない私を、まだ「父」と呼び慕ってくれるであろうか。そうあってくれるならば、私達の物語は永遠の輝きを放ち続けるであろう。祝福された終焉とは、作者自身の「無償の愛」によって齎される。


 私は、そんな我が子を育て切る事が出来ているであろうか。その首筋に手をかけてきた、殺めてきた物語たちによって汚れた手は、美しい子供達を誇る事の出来る手となっているだろうか。

 私はいつも、そんな事ばかり考えてしまうのである。

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