煉獄のナルキッソス 旅と断罪の世界
僕の短い人生について考えると、その端々に小さな罪の世界があったように思う。
その端々の小さな罪の積み重ねが、僕の物書きとしての世界観の醸成に大いに役に立ったと思える。
多くの作品-娯楽の世界にある美しい作品群-が知性と理性の領域において必ずしも洗練されていないとわかると、途端に自分の世界がいかに優れているかを語りたくなる。しかし、その実、自分が描いてきた作品が果たして素晴らしい出来栄えだったのかと読み返すと……反吐がでる、おこがましいにも程がある。
そうした思いから、改めて少し彼らの作品群に向き合う努力をすると、今度は私の罪の積み重ねが大した意味を持たないような心持ちとなり、産みの苦しみとはかくも際限のないものだろうかと驚嘆する。
旅を人生に例えるものがあるが、それは丁度寄り道と浪費、つまり無駄に満ち溢れた古典的な大旅行の世界であると言える。
中世欧州における旅とは、江戸時代にいうお伊勢参りのように、聖地巡礼ツアーという長い人生を賭けた旅路であった。言い換えれば、現代よりも信仰の世界が世俗の世界に満ちていた中世の聖地巡礼ツアーとは、正しく人生の罪を洗い流す旅であったといえるだろう。
そこに経済効果を見出したのがヴェネツィアであった訳だが、中世庶民が夢見る旅行とは、多くが罪が赦される事を、つまり死後の世界の救済を期待するものであったといえる。
それが近代世界になると、がらりと雰囲気を変える。
グランド・ツアーと呼ばれる大旅行が学生の卒業旅行として流行すると、それには(もちろん宗教の世界を完全に離れているとは言えないが)いわば研究旅行、文化交流、歴史探訪、修学旅行のような側面が如実に現れてくる。
主な役者であるイギリスの学生たちにとって、この大旅行は大陸の文化に触れる感激と興奮に満ちた旅であっただろう。
現代に一歩、二歩、近づくにつれて旅の様相は徐々に文化交流の領域、経済効果の領域へと向かっていくようになる。つまり、人生を旅に例えるとき、我々は意図的に「巡礼の旅」から遠ざかり、徐々に「交流の旅」へと近づいていくのである。
人生もまた、自身の世界観の醸成-つまり信仰の醸成-の領域から、経済と解放の領域へと足を踏み入れていく。それは学校では宗教的な秩序の領域を学び、社会では多くの他の世界観からの衝撃を学ぶのである。
つまり、僕の世界はまだ若く、物語としての練度が低いという事を言いたい。異なる世界を楽しむ大旅行の精神を、僕はまだ持っていないのだろう。
水面に映る僕の顔を美しいと思えるそのうちは、おそらく僕は若いのだろう。信仰の旅の世界に囚われて、その顔と向き合い続けている限りは。




