火葬場のファウスト 絶え間ないピグマリオンに関して
ゴミ処理場の炎は、火葬場のそれによく似ている。
古代から人間には土葬が一般的な例も多いから、ゴミを焼く姿よりも放置して家畜に与える方が性に合っていたのかも知れない。
この場所で筆を取るきっかけになったのは、なろう系主人公について友人と言葉を交わしあった事だった。
当時は茶化していたたくさんの物語たちも、よくよく精査すればうまく使えるのではないか?私はそういったギミックに大いに関心を持ち、筆を取ることにした。
かねてより信仰と死についてばかり考えていたから、転生のきっかけが神である事に疑問を抱いて悪魔に修正し、徹底して「カメラ」と「官僚」を作る事に専念した。
彼らの生活を切り取りながら、どことなくご都合主義に向かう彼らに違和感を覚えつつ、しかし張り巡らされた問題の全てをあえて解決せずに、その当時解決可能な問題だけを一つずつ解決していく。内政系なるものが奇妙なほど浮世離れしていく事に強い憤りを覚えていたので、「政治」「外交」「文言解釈」「衆愚政治」の4つは必ず仄めかしておかなければならないと思った。微妙なバランス感覚や文化的素地を見極める力が必要な内政については、創作の世界でも慎重に、慎重に進めなければならない。
主人公が死ぬ事は絶対にあり得ない作品ではあったが、その字面の地味さには奇妙な事に誇りを持っている。
当然受けなかったが、それなりに楽しかったと思う。
そして、続けて筆を取る時には流れる時代の波に煩悶する日々から、あるいはそれらに取り残されていく焦燥から、世代交代をテーマにして筆を取った。
主人公のタイプが私からかけ離れていて、吐き気を催すほどの嫌悪感を感じずにはいられなかったが、書き進めるごとに、その他周辺の多くの世代交代を楽しむことが出来た。
「官僚」の試みから離れるために、一番はじめに前作の人物の葬儀を行なったのは、彼自身が一つの世代交代のギミックの答えだったからだ。
そして、この舞台さえも世代交代に流されていくのだという暗示を、最後には仄めかす。しかし、それはあくまで明るく友好的な別れであって、不幸ではない。この筆が描いたのは、世代交代という一つの流れの中で、一時期にしか存在し得ない人間のことだった。
だからこそ、時代の徒花にあった天才が最後を飾るにふさわしいと感じた。そして、主人公自身も世代交代の波に押し流され、次の舞台への足がかりを作る。
人、物、文化、信仰、国……全ては移ろい行き死にゆくものだ。それを、この作品に込められていたならば、書いた甲斐があったと思う。
そして……。僕は君と出会ってしまった。ずっと出会いたかった、もう出会えない君と。
筆を取らずにはいられなかった。彼らが人間となるという発想は、彼らを再度苦しみの淵に落とす事でもあったが、同時に彼らが彼ららしく幸福を享受する事を望んだ。
だから、この作品は徹底して、「面影」が付き纏う。源氏物語の形代の思想のように、代替物を求める一つの旅路には常に言いようのない苦しみが付き纏う。
人はそれを嫌うし、きっとだれも求めていないのだろう。これは徹頭徹尾私のための物語で、独りよがりゆえに無価値なのだ。
但し、私のための物語は私を楽しませるものではなく、誰かに対する祈りを届けるものなのだ。
もうはじめの頃のように物語に楽しみを見出す事はないだろう。この作品は「呪い」だ。私を否定するための呪いであり、私の彼らへの思いの結晶だ。
全てが幸福な世界など存在しないとしても……彼らには、もう一度、幸福と苦痛の楽しみの中を駆け抜けて欲しかった。もう少しだけ、もう少しだけ、君達は僕のわがままを聞いてくれるだろうか?頷いてくれなくても、もう全て出す算段はついているのだけれど。
そして、私はここに至って、自分自身が本当の本当に不必要なゴミなのだという兼ねてからの思いに完全な確信を持つに至った。
ゴミなどと言えばゴミに失礼だが、それ以上の言葉を私は知らない。
評価は関係ないや、趣味だから、という人は多い。楽しくなければやらなくていいという人も多い。ならば何故、死ぬ事を否定する論理がこの世界に存在するのか?それは迷惑をかけるからというのは、おそらく違うだろう。サーバに僅かばかりの負担を掛けることが負担でないと何故言い切れるのか?そう、私達は常に罪を背負っていて、存在する事が罰なのだ。
イエスは隣人を愛せよと説き、釈尊はこだわりを捨てよと説き、マホメットは神の慈愛を得るため、善き人となるための不断の努力を説いた。彼らが偉大なのは、彼らの思想が洗練されている事で、私達が今を生きるためだけに費やしてきた時間の全てを機械的に見る欠陥を浮き彫りにさせてくれる。
科学の進歩に神が必要だったように、私達にはまだ何かが足りないまま足踏みをしているのだ。スタートラインにすら立っていない。そして、スタートラインに立つ事なく死ぬだろう。それが命の重さだ、その程度が。
私の中にある思考の渦はいまだに消えない。多くの人が創作を楽しむのに、私は何故、娯楽を苦しまなければならないのだろう?いや、創作に限った話ではないのだ。全てが煩わしく、存在に対する罪の意識があらゆる人々に向けられ、道を歩くことさえも不安でたまらないのだ。
火葬場が遠くにあるのか、近くにあるのか。それは大きな問題でないという人もいるだろう。しかし、私の中にある火葬場のファウストは、今なおその距離を測り続けている。
止められないのだ。この言葉一つ一つを語る事が。激情のせいで、言葉が乱れても、思考を貯め込めば壊れてしまう。犯した罪の数だけ、この断罪の旅路が長く続くとしても。それに耐え得るほど私は強くない。
私は思考する。私と出会ってしまった、たくさんの不幸な人々を。
私は志向する。遍く照らす天球の世界を。
私は試行する。その光の案内人と出会うために。
あるいは、この思考を止めてくれるグレートヒェンと出会うために。
こんな役立たずを包み込んでくれるものは、火葬場から立ち上る煙の中にしかないのだから。




