火葬場のファウスト-他意のない絶望の思考-
毎日、毎日、過ごすごとに増えていくものがある。
例えば、痛み。例えば、憎しみ。例えば、自己嫌悪。例えば、祈り。私たちの中には、いつも形のないものが蓄積されているのである。
私はそうしたものの中で、いつも貴方の言葉に助けられている。無力で無欲な、強欲な人々の、勝利のない世界についての言葉に。
今日も指を挟んだ、痛い。それに対して貴方は「死に損ないが」と罵る。
今日も誰かに叱られた。無能が憎い。それに対して貴方は「いっそ世界のために帰ってくれないか?」と乞う。
今日も嫌な事から逃げた。それに対して貴方は「臆病者が、生きる価値なし、知恵遅れが」と背中を押す。
それは私の中にある不特定多数の他者だ。貴方ならば私を救ってくれるだろう。一つの言葉によって、個人的な総意をもたらしてくれるだろう。あらゆる納得と諦めを与えてくれるだろう。
他者を気にせずという言葉が、現代にはありふれているように思う。しかし、他者なくして存在する個など、どこに存在しようか?個とは個を認識する事によって生まれるのだ。つまりは我々はこうした個と他者の区別なくして存在し得ず、他者によって作られた色によって、初めてこの形を作るのである。それでも個を盲信する幾多のものがいるとすれば、それはきっと以下のような理由に基づくだろう。
個とは、これを認識する器官-つまり人々が自分をどう思っているかについて自分が知っている状態に認識する器官-の事を呼ぶのであって、区分不可能な状態を区分する為にはなるほど私のいう他者は必要だが、本質的には個が存在する、というのであろう。
それは実に興味深い見解であるが、やはり個を表出する事によって初めて自分を個足らしめるのであって、それはもはや多くの人が考える個ではない。むしろその本質は他者により近くなり、私たちはその他者によって個となるのである。即ち、私のこの形もまた、他者があって初めて成り立つのだろう。
さて、私たちの喉元に突きつけられたこの個に関する問題を踏まえて、私の中に住む他者の言葉に耳を傾けてみよう。
あらゆる問題は気の持ちようだという人があるが、それはこの問題に関してはやはり的を射ていると言える。私たちは自らの器官によって他者の捉える個を知っている状態に認識すると、私は他者をそのように「解釈」しているのである。
そうすると、これまで被害者であった私たちはたちまち加害者となる。そして同時に、言いようのない嫌悪感とともに、自己を否定する力が生じる。そして、他者はここで私たちを完全なる無価値に導くのである。
自己が認識する他者が認識している自己に対する感情によって、私達は真の個を知覚する。しかし、この偏屈な思想を完全に否定しようとする力が存在する。それもまた他者であって、あるいは自己を認識している他者を認識している自己である。
話が堂々巡りし始めた。私はこの思索を思考の外に置くことにしよう。……多分それで、自己を認識する他者を認識する自己が自己嫌悪を起こすこともないだろうからね。




