自由と愛徳
人間はどの時代でも、利益を追い求める生き物だ。形は違えど豊かさを求め、便利さを求め、富を求める。なるべくならば楽していきていきたいし、なるべくならば労せずして莫大な財産が転がり込んでくる方がいい。もっとも、そんな虫のいい話は滅多にないわけだが。
資本主義の源流は、近世であったと言われている。それが本格的に始まるのが18世紀末の、所謂産業革命からだ。
それ以前の話、例えば中世の話をすると、現代との認識の齟齬に理解に苦しむ例は枚挙にいとまがない。それはひとえに彼らの時代における絶対的な価値基準が宗教だったからだ。信仰に適う行動が重んじられたこと、それ故に資産家たちも魂の救済を求めて戦々恐々としていた事も窺える。
もっとも、現代でもある種の信仰というのは続いているのであり、現代と中世のあいだの隔たりというのも一種の宗教観の対立なのかも知れない。
(懐疑的だが)自由と(上辺だけかもしれないが)博愛と(機会の上での)平等と、コミュニティにおける正義の具現が相容れないというのは、至極当然のことである。そうであれば、「真っ当な人間」の概念が変化する以上、現代の尺度で測ることは適切ではないことだけは、間違いないだろう。