表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火葬場のファウスト 絶え間ないピグマリオンに関して  作者: 民間人。
火葬場のファウスト
19/57

火葬場のファウスト-評価されない作品にいかほどの価値があろうか?

 私は、火葬場の幻を見た。この病室の向こうにある火葬場で、骨壺が並ぶ光景を。幻の中の人々は箸渡し、箸渡し、繋ぎ、繋いで、壺へ積む。それが彼らの成れの果てとも思わずに、誰かの骨を摘み、摘んで、絆を確かめ合う。


 空の白、海の青、山の緑のその中で、彼らはかつてを思い、在りし日の主人のことを思った。


 そこに刻まれたものは誰かの物語の主人公の名だった。

 いつか終わる物語を、道半ばで果てさせる事は、彼らを思考の外に置き、また彼らを荼毘に付す事だ。塵から生まれた思考の向こう側へと返す為に、粉々に砕かれた思考の粒子……。彼らはその祈りとともに潰え、誓いから離れて消えて行く。


 空白から空白へと帰る瞬間は思考が入り混じり、混沌として煩雑となってしまっている。そうでなければ、物語は未だ終わらず、あてのない思考の旅は続いて行くだろう。


 果たして、評価されない作品にいかほどの価値があろうか。他者無くして人は成立しないのであれば、他者の評価無くして作品は成立しうるのだろうか。

 芸術を騙る烏合の作品たち、その一つに自分の影があるのならば、私たちはその物語を成立した作品と呼ぶべきなのだろうか。


 或いは、自己とは、他者なのだろうか。生物には明確な内外の分離が必要とされている。仮に自己が他者であるとすれば、作品を成り立たせるには生物は存在してはならないことになる。


 私たちの思考は、どこに行けばいいのか。私はもう、思考を外に置くことができないでいる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ