見栄の遺産としての『毛皮』
偉大な人物は見栄の塊である。虚勢を張る事に躍起になり、自分が如何に偉大かを誇示しようとする。
そんな偉大な人々にとって格好の餌食となったもののが、毛皮である事はよく知られている。アーミンの毛皮、ビーバーの毛皮、狐の毛皮、etc……。
偉大な人々によって狩られ続けた動物達の毛皮は、皮肉にも今でも見ることができるものもある。動物の命は有限であり、管理された毛皮よりは短い。彼らは我々を楽しませるために、自らを着飾ってきたのかもしれない。
偉大さを誇示する為に役立つと言えば、書籍も又その役割を持つ。
革製の表紙を持つ『白王伝』は、中世最後の騎士マクシミリアン1世の功績を基にした作品であるし、聖書などの装丁本は読み物以上の価値があるものもある。
毛皮が現在を着飾る見栄であるというならば、書籍は未来に向けた見栄とも言えるだろう。書籍や毛皮には、それ自体に共通して見栄の遺産としての価値がある。
そして、毛皮となった動物達は、今なおそこで沈黙を続けている。彼らは思うことも最早出来ないまま、変わり果てた姿で私達を楽しませる。私達はそれが大地を蹴った様に思いをはせる事もない。
人類が動物に思いをはせることができる剥製として形を残したオオウミガラスは、実は幸せだったのかもしれない。毛皮という見栄の遺産が人類の進化を伝えながら、こうして晒され続けるのだから。




