それでも、僕は。
「筆が進まないなぁ……」
一人、白い部屋の中で呟く。孤独の中で確かに光る作品を目に焼き付けたその身が、筆をとる事を拒んでいる。
中世、未だ紙が貴重な時代において、識字率は低かったと言われている。そのような状況を変えたのが手書きの時代から出版の時代への進化、即ち活版印刷技術の時代への突入からであり、また、更に深く浸透するまでには義務教育の誕生までを待たなければならなかった。そして、キーボードを叩けば文字が綴られる現代にあって、識字率は非常に高くなっている。
僕達は文字という記録媒体によって、様々な記録や記憶を残し、後世へ伝えてきた。
文字は現実を表すものではなく、虚構までも形にするものであるが、そのような記録や記憶を後世に伝えていく事にこそ大きな意味があり、つまりは情報伝達と記録というのが主な役割である。
話を少しだけ戻そう。識字率の向上によって文字を使う事が当たり前になると、人々は、その利便性を単なる記録としてだけでなく、表現として利用するようになる。そして、かつては高尚なものであった伝承や説話、小説などがありふれたものとなる。そして現代においては文字と絵画の合成による「漫画」の隆盛により、文字の表現としての地位には変化が見られる。
このように、識字率の向上は、大衆のための文学が発展していく事を意味する。
そして、「小説家になろう」である。大衆迎合の極致、偉大なる空想世界の集合体、或いは、他ならぬ解放への排斥運動。凡ゆる解放のための祈りが込められた作品群は、しかし、美と探求をも排除するようになった。彼らは約束の地を求める流浪の民であり、約束された地に向かわんとしてその地に根を付けた萬民を放逐し、理想国家を戴く。そして神への裏切りがやがて崩壊を招くために、流浪の民が見出せない美と探求もまた排斥される。
僕は筆を置く。叩いたキーボードには小さな塵や埃が溜まっていて、年季の入ったファンが悲鳴をあげる。フゥフゥと荒い息を立てる彼は白いキャンバスに塗りつけられた黒いシミたちに非難の声を上げる。疲弊した脳が前に進もうとしない、丁度今の僕のように。
筆をとったその時の興奮を、ここに再び見いだすことは出来ないだろう。作り上げられてしまった作品は誰に見られるでもなく埋もれていく。僕は流浪の民にもなれずに砂の上を彷徨い、渇いた体が甘い幻を見せる、それにすがりつく事でしかこの身を保てない。今、時の止まった一つの世界には数人の役者が配されたままである。彼らも丁度流浪の民に排斥されることもできないまま砂漠の中を行く。誰に見出されるかも知らず、ただ、その時を待っている。
無力だ。筆が音を立てて崩れ落ちる。文字が黒いシミに変わる。黒いシミが滲んでいく。価値が破滅していく。
それでも、僕は。




