火葬場のファウスト 無価値なものの救済について
売店で見かけた菓子や、見舞いの品の数々を見て、それらの価格がきになることがある。しかも、見舞いの品と言うものは、その価格を隠してあることが多いのだから、ずっとモヤモヤとした気持ちを抱えなければならない。
白い病棟の消毒液のにおいに慣れた鼻は、アルコールの臭いにそれほど抵抗を抱くことなく、日々を過ごし始める。人間が価格をつけようとしない雑菌達を殺す為、数百円の消毒液のにおいを嗅ぎ続ける。
再度見舞いの品を見ると、やはり価格の判然としない立派な果物が盛り付けられている。
せっかくある価値を隠された彼らにとって、この病棟における価値は如何程だろうか。あぁ、プライスレスという奴だろう。つまりは、「価格の無いもの」、「無償の善意」、そして、「無価値なもの」。
命に値段はないという、しようのない戯言がある。ならば、少し歩いてコンビニに行って見るといい。値付けされた命の数々が並んでいるだろう。命には価値があると言う、それもまた戯言である。では一体、消毒液で霧散した目に見えない命に、いくらまで払うのだろうか。
価値と価格の間には大きな乖離がある。認識の齟齬を利用すれば、こんな屁理屈で誤魔化せるかもしれない。その意味で、「プライスレス」という価値は、とても興味深い。
しかし、値段をつけられない命には、果たして価値があるのか。
私は、値段を隠された果物達に問う。「濫造された粗製銀貨に値踏みされた気分はどうか?」と。果物は答える。「0円になる前にさっさと食ってくれ」と。
つまりは彼らには、グレートヒェンも見向きもしないのである。
因みに無価値は「バリューレス」らしいです。あぁ、言われればその通りですね。




