創作者の傲慢と驕り-「作品」という鎖への妄執
我々創作者にとって、作品とは自身の表現における最上のものであって、多くの場合、そこに誇りと思想、喜びと葛藤を織り込んだ上で作り上げる。
しかし、これもまた多くの場合、というよりもずっと一般的に、創作物に評価を与えられる事は極端に少ない。恥ずかしながら、私自身、全くもって低能・無能であって、駄作を垂れ流す責任を感じる事がある。残念ながら、わたしには文才はないが、せめて私が作り上げた偶像達には、幸福であれ不幸であれ、「認知」されて欲しいと願う。
さて、本題に入ろう。先述の通り、創作者は、作品を作る場合に、必ずと言ってよいほど自身の誇りと思想、喜びと葛藤を表現に移しこもうとする。そして、それらが評価されることに、一定の価値を見出す場合が多い。
作品とは、彼らの表現の場であり、意思表示の場であって、普段は思想の域を脱しない、自身の側面を表現することに大きな意義を見出す。それが認められればうれしいのは当然、評価されれば喜ぶのも当然である。
商業作品と異なり、投稿小説というものは特にこの側面が強く表れやすく、小説家になろうもその例に漏れない。それを如実に示しているのが、所謂底辺作家が陥りがちな、「エター」の一要因である。評価を求め、ブックマークを求め、果ては時間を割いての感想を求め、際限なく、貪欲に求め続ける。しかし、その努力は虚しく、認知すらされずに埋もれていくことが殆どである。
こうした際限のない欲求を見て思い起こすのは、仏教的思想、所謂「こだわりを捨てる」ことの重要性である。原始仏教において重要なのは、良い行いをしてよい結果を生むなどと言う善因善果、悪因悪果の思想だけではなく、そもそも「生そのもの」による苦痛も含まれる。四苦として挙げられる生苦、老苦、病苦、死苦の四要素のうちの生苦がこれに該当し、これらを取り除くための宗教が、仏教なのである。
そして、この仏教の最大の目的こそが悟り、解脱、涅槃、即ち、無我の境地に至る事にある。
翻って、創作者が求めている者は、果たして本当に評価であるべきだろうか。商業化作品であればその通りであり、「金を出したいと思う程の執着」を、読者に与えることが重要である。
一方で、我々底辺にある者にとって、評価がどれ程重要かは定かではない。自身の表現の一環として、創作を続けるのならば、どれ程評価が高くとも、あるいは低くともあまり変わりがないように思える。
「エター」に至る道が単純な関心の喪失ならば致し方ないものの、それが他者の評価が芳しくない事により生じるのであれば、創作の本質を一度整理しなければならないだろう。即ち、仮に、創作の本質が自身の一般的価値の為にあるのであれば、それは一度見切りをつけて、新たな世界を作り直す必要があろう。物語を綴ることで、伝えるべきものを伝えたいと願うのであれば、その作品が正しいのかを検討したうえで、継続か中止を決めなければならない。
或いは、そもそも、創作というこだわり自体を捨てることは叶わないだろうか。即ち、不特定多数の他者‐読者にとって、貴方の作品は「何者でもない」のだから。




