俯瞰する狂気と信仰-魔女と科学の排斥論
魔女狩りの狂気は先述したものの、我々にとって今まさに信仰の只中にある科学という知見から、全ての事象を理解することはできるのだろうか。そんな事を時折考える。
科学とは、物理的な事象の真理を証明する事には絶対的に価値のあるものであると言えるが、その承認に権威が伴うこともまた事実である。
それは、由緒ある学会の承認によって認められ、世論とはまた違った世界が作られる。
その世界と宗教がどれほど違うのかと問われれば、世俗に暮らす我々には知る術がない。それでは、学会に身を置く学者達は兎も角、我々にとっての科学とは宗教とどれほど異なるのだろうか。
2014年の日本の権威ある研究所における騒動は記憶に新しいが、2000年代に世界的に話題となったドイツのある研究所に所属していた若手研究者による同質の騒動などから、科学界においても、人類の信仰の形が未だ残っている様が窺える。
また、日本では有名な血液型占いなどの似非科学も未だに残っていることを考えると、信仰とは言わずとも、迷信の様なものは日常のあちこちに残っている様である。
信仰とは何も神に対する信心深さだけではなく、人類が漠然と信仰する虚構あるいは真実に対するもの全てに現れるものである。
権威と信仰は決して排除すべきものではなく、利用するべきものである。しかし、不正は不正、事件は事件として、別途調査するべきであろう。
三権分立の徹底による権威の細分化もそれを防ぐことに役立つだろう。しかし、権威の細分化は権威の対立をつくるのにも役立つ。この権威の細分化によって政治判断が難しくなることは、国家の衰退に一役を担うことにもなろう。こと現代日本においては、独裁国家や君主政治を徹底的に否定し、民主主義を持ち上げる傾向があるが、それもまた、一つの虚構に裏付けされた信仰の一側面なのかもしれない。
再度、宗教を考えると、その役割は現在の法律と同質の秩序維持の為のものであった。それは、教主を中心とする権威に裏付けられた、もう一つの政治体系、即ち神権政治である。
魔女狩りもまた、漠然とした権威が作り出した事件であったが、むしろその本質は集団の狂気-権威から少し立場を離れた場所にあるもの-のために起こされたものだ。
人類は何かに縋り付くことで初めて自己を正当化する。自己承認欲求の権化である我々創作者も例に漏れず、自己を何らかの形で正当化しようとする。それが権威であれば間違いで、自身であれば高尚なものと言えるだろうか?それとも、逆なのだろうか。信仰の本質からは逸れた議論ではあるが、このような個人レベルの判断の多くが、信仰と繋がるように思えてならない。
集団の狂気と他者論は、信仰の側面を切り取った一つの答えなのではないか。筆者は、そう思わずにはいられないのである。




