魔女と虐めの境目
魔女狩りと言えば、誰もが簡単に想像することができる。近代に生み出された新たなる狂気は、その実民衆による集団ヒステリーであったという。
15世紀後半の1487年、ハインリヒ・クラーマーという修道士が著した「魔女に与える鉄槌」は、活版印刷技術の発達と共に広く一般に普及し、魔女狩りの基本書として重宝された。そして、時代は魔女を作る事に熱狂するようになっていく。より正確に言えば、『魔女に与える鉄槌』の発刊からは暫く後の16世紀後半ごろから、魔女狩りはピークを迎える。
中には自ら魔女であると言って社会を甘んじるものも現れたというので、この狂気は単なる拷問と野蛮の歴史ではない。
現代人から見れば馬鹿馬鹿しいと思えるこの問題も、当時の人間にとってはずっと重い事態として受け取られていた。
さて、魔女狩りはしばしば過ぎ去った狂気の記憶として取り上げられ、曝されれば酷く罵倒される。当然と言えば当然だが、人間はいわれのない非難を受けて他者の安堵のために自身を犠牲にする必要はないだろう。
現代にはすっかり見受けられなくなったこの魔女狩りは、最早過去のものとして取り除くことが出来ただろうか。
現代における集団の恐怖と言えば、虐めだろうか。一見、一人の人間が対象にされているように見えるそれは、対象を変えながら次々と取り替えられていく憂さ晴らしの一つであり、決して集団に所属しないものも無関係ではない。
集団の評価は簡単に人を殺す事に役立つようだが、残念ながら人間はそれを止める力を簡単に持つことはできないだろう。
虐めと魔女狩りは違うだろうと言われれば、仰る通りだ。しかし、ターゲットを次々に変えながら、時には指導者をも貶める、集団による巨大な生贄の輪は、なかなか消えることもない。これは、学校だけではなく、社会も然り、会社も然りである。
魔女狩りはその形を変え、細分化されて残り続けるのかもしれない。心象による謂れなき集団の暴力は、それこそ人間が進化することでもなければ、簡単に変わりようもないのだろう。即ち、憂さ晴らしと人間には、魔女を簡単に捨てることができないのではないだろうか。




