ドライブとコーヒー
卒業式の日、彼女は1日中泣いていたのではないか。
前日の晩から「寂しい」「引っ越したくない」「やっぱり就職しておけば良かった」などと、僕の返答があろうとなかろうと、ひっきりなしにメッセージを寄越してきた。
よくもまあ尽きないものだと感心するほど、様々な言葉で胸の内の不安を僕に投げかけてきた。
多少度が過ぎるとは思うものの、そんな彼女が愛おしく思えた。それまで過ごしてきた2年間で、彼女は嘘の付けない人間であると学んだ。不義理を働く者には怒り、僕の淹れたコーヒーを苦いと笑う。ひとつ年下の僕でさえも、時々彼女に親心のような慈しみを覚える。それでも、最低限の礼儀だけを下地に、あとは感情の振れるがままに生きる彼女が好きだった。万華鏡のように絶え間なく揺れる彼女の姿に憧れていた。
野良猫並みに気まぐれな彼女が、2年間も僕を頼ってくれていたことは、今にして思えば奇跡なのかも知れない。初めて告白されたからという理由だけで、僕の想いを受け止めてくれた。
この2年間、そんな彼女を繋ぎ止めるのに随分と力を尽くした。彼女の趣味を聞き出し、綺麗な景色を探し、美味しいものを探した。異性に好まれる髪型を調べ、生まれて初めて美容室に通った。友人を通して彼女の誕生日を知り、サプライズを企てた。
その努力の甲斐あってか、これまで彼女に愛想を尽かされずに済んだ。どれも決して簡単なことではなかったが、驚き、笑い、涙を浮かべる彼女の姿は、対価には余るほどに眩しいものだった。
僕よりも1年先に高校を卒業する彼女は、秋田の大学へ行った。「車で12時間」と彼女は笑ったが、免許もない僕には想像のつかない距離だった。
「世界を相手に仕事がしたい」
彼女の夢を叶えるためには、そこの大学が最善の選択なのだそうだ。夢のためには僕の存在など意に介さない、とでも言うように遠方の大学を選んだかと思えば、合格を決めてからになって
「会えなくなるのは寂しい」
と泣き喚いた。
「来年には僕もそっちに行きますから」
僕の成績では少し難があったが、そう慰めることしかできなかった。
彼女からのメッセージは、日が経つに連れて少なくなった。4月の初めには「晩御飯を作ったよ」「初めてスーツを着たよ」と小さな出来事の報告をしてくれていたが、1日1回、3日に1回と徐々に頻度が減り始め、8月を迎えた今では、毎週末の「定時連絡」だけが、僕と彼女を繋いでいる。
大学生ともなると、きっと忙しいのだろう。世界を見据えた夢を実現するには、並大抵でない努力が必要なのだろう。具体的に何をどうしているのかは、高校生の僕には想像できないが、そういうものなのだろうと自分に言い聞かせた。
「お盆はそっちに帰るよ」
自室の学習机で過去問と戦っていた僕に、嬉しい知らせが届いた。僕にとっても大事な時期であるが、数日くらいは息抜きをしてもいいだろう。どこへ行こうか。彼女が好んでいたものを思い出して、限られた時間の中で目一杯彼女に喜んでもらうための計画を立てた。
約束の日、駅のロータリーで待ち合わせていると、僕の目の前に1台の車が停まり、助手席の窓が開いた。
「やっほ」
懐かしい声に覗き込むと、運転席から彼女が手を振っていた。
「お父さんの借りてきた」
何も変わらない、悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女。
「今日はドライブしよう。さあ乗った乗った」
彼女は運転席から体を伸ばし、助手席のドアを開けてくれた。
「免許、持ってたんですね」
一礼してから、助手席に乗り込む。
「いや、向こう行ってから取ったんだよ。秋田も車社会でさ、免許が無いと冬場に困るぞーって脅されて。こうやって帰ってきた時に君を驚かせたくて、君には黙ってた」
免許も無い僕が言えたことではないが、この人に運転が出来るのだろうか。少し不安になった。
「ちょっとビビってるでしょ」
僕の頭の中を見透かしたように、彼女は頬を膨らませた。
「バレましたか」
「もう、信用ないなあ。私だって向こう行ってからいろいろあったんだよ」
いろいろ、という言葉に胸が跳ねた。
ここ最近少なくなっていた彼女からのメッセージ。その隙間に、どんなことがあったんだろう。どうしても、嫌な想像がよぎる。
「じゃあ車出すよ」
そう言って彼女は慣れた手つきでハンドルを切った。
ひとしきり彼女のお気に入りだった場所を巡って、夕方の湖岸道路を走っていた。
なんとなく据わりの悪い1日だった。彼女は、以前よりも笑わなくなった気がする。彼女の趣味だった熱帯魚を見ても、オムライス屋の新しいメニューを選んでも、見ているこっちが幸せになるくらいの笑みが、今日は無かった。
「受験勉強疲れ?」
信号が変わるのを待っている時、彼女が前を見つめたまま言った。
「いや、別に……」
確かにここ最近、ずっと根を詰めて勉強はしていたが、その疲れが顔に出ていたという自覚は無い。久しぶりに彼女に会える嬉しさの方が勝っていたはずだ。
「ほんと? なんかあんまり楽しくなさそうだったから、無理やり誘って悪かったかなあって思った」
信号が青になり、滑るように車が走り出す。
「それを言うなら、先輩もあんまり笑わなかったですけど……」
「そうそう。なんかさあ」
僕の一言を待っていたように、彼女が話し出す。
「懐かしの地元ーって。ワクワクしながら帰ってきたつもりだったんだけど、いろんなものが思ってたより小さかった。あれ? こんなものなのかな?って」
「あの熱帯魚屋さんも、前はもっと一杯水槽が置いてあったはずだし、オムライスもなんかちょっと味が落ちたような気がする」
「向こうでもさ、美味しいイタリアンのお店があって。サークルの先輩に教えてもらって。秋田のクセにやるなーって思った」
「ほんとはダメなんだけど、こっそりワインとか飲んでさ。一杯でポヤポヤになっちゃって、多分私お酒弱いんだ」
「先輩」
聞きたくなかった。僕の知らない彼女を、これ以上想像したくなかった。
「……僕ら、別れましょうか」
考えてもいないことを口に出した。秋田へ旅立つ前、あれほどまでに弱音を吐いていた彼女をもう一度見たくて、困らせようと思った。
「……ちょっと待ってね」
彼女はしばらく黙っていたが、思いついたようにウィンカーを出して、道沿いのコンビニへと入った。
「まじめな話みたいだから、飲み物買ってくるね」
彼女は軒先のスペースに前向きで駐車した。
「僕も行きます」
「いいよ。エンジン切ると暑くなるからさ。見張りしといて」
僕が何かを言い返す間もなく、彼女は車を降りて一人で店へ入っていった。
「はいこれ」
カフェオレとブラックコーヒーを抱えて戻ってきた彼女は、有無を言わざす僕にカフェオレを押し付けた。
「お金払います」
「高校生が何を言うか。私バイトしてるんだから、お姉さんに任せなさい」
彼女は僕の好意を笑い飛ばして、再び車を動かした。
「こーいう話には、コーヒーが不可欠だよ。言葉に困ったら、飲んで誤魔化せるし」
記憶の限りでは、僕達は別れ話をしたことが無い。些細な喧嘩こそ何度もしたが、別れようなんて言葉は、今日僕が初めて発した。
「……先輩、ブラック飲めたんですね」
「そーなの。レポートが鬼のように積もってて、寝たら死ぬぞって自分に言い聞かせながら飲んでたら、いつの間にか中毒になっちゃって」
彼女は口元に当てたボトルを躊躇いなく傾ける。
「昔は苦いのイヤって怒ってましたよね」
「そーだっけ、覚えてないや」
僕の知っている彼女が消えていく。
「……それで、さっきの話だけど」
「ごめんなさい、あれは」
彼女の言葉を無理矢理遮った。なんとなく、その先の言葉が分かる気がしたからだ。
急なカーブに差し掛かり、減速を促す道路の凹凸で車が揺れる。沈黙は続く。彼女が一度も目を合わせないのは、運転に集中しているからだ。そのはずだ。
「君も、来年分かると思うけど」
「大学生になると、うわっといろんな選択肢が、目の前にできてさ。私、それの端から端まで手を付けてみたくて、今すごい充実してるの」
「盆休みで、親もうるさいからとりあえず帰ってきたけど、ほんとは向こうに居たかった。向こうで、いろいろやることがあった。」
その言葉が、全てだった。
「僕に割く時間は無いわけですね」
彼女はコーヒーを一口飲んでから話し始めた。
「いやー、そういうことじゃなくてね、私、今までずっと君に迷惑かけてきて、こっち離れるまで、ヒドかったでしょ。昨夜帰ってくる新幹線の中で、今まで君に送ったメッセージを読み返してたら、年上のクセして、なんて情けないんだろうって恥ずかしくなって……」
彼女は、ボトルを握る手をそのままに話していたが、やがて大きく頷いて、センターコンソールのカップスタンドにボトルを置いた。
「いや、言い訳は良くないね。ごめん、別れよう。ほんとは私も、それを言いにきた」
ずっと、彼女は僕に依存しているのだと思っていたが、逆だった。元来気まぐれな彼女の気を惹くために、僕が一人で踊っていたのだ。夢中になっていたのは僕の方だ。今、澄まし顔をしている彼女に対して、僕の手が勝手に震えているのが証拠だ。
「……僕が、来年同じ大学に受かったら、また元通りになりますかね」
やっとのことで声を出した。
「……君も、来年分かると思う」
気がつけば、車は渋滞に捕まっていた。
このままずっと、進んでくれるなと思った。