4 独りの女の子
「大丈夫か?桃歌」
前から覗きこむように顔色を窺うディールに桃歌はびくりと肩を震わす。話をしてくれたおじさんは、「なんか、悪いこと言っちまったみてーだな」と申し訳なさそうにこの場を立ち去っていた。
街中のざわめきがどこか遠くに聞こえ、桃歌の目には意地悪そうな顔をした騎士しか映らない。
「桃歌?」
ディールが心配するように桃歌に手を伸ばす。
「さ、さわらないで!!」
桃歌は思わず叫んでしまう。行き交う人々がちらちらと見ているが、桃歌にはそれどころではなかった。
ディールは王子直属の騎士。王子が塔に引き籠っていたことは知っているはずだ。それなのに、桃歌は昨夜彼に塔に閉じ込められていた姫だと言ってしまった。彼にとって桃歌はどう考えても不審人物のはずだ。
――ディールには気をつけろよ
昨夜ロロの忠告を思い出す。ロロはディールが桃歌を不審に思っているのを知っていたのだ。
捕まるかもしれない。騎士である彼に桃歌が勝つことは不可能だろう。桃歌は気付いたらその場から駈け出していた。
(逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!)
ディールはずっと塔を監視していたのだ。塔にいる王子様を。湖で会ったときもそうだ。彼は塔から王子以外の女が出てきて不審に思い、後をつけてきたのだ。街で出会ったのも、偶然なんかじゃない。桃歌の様子をずっと窺っていたのだろう。
次々と桃歌の頭の中で嫌な考えが浮かぶ。それらを振り切るように必死に走り続けた。
桃歌は街中を走りぬける。街ゆく人にぶつかりながらも、決して足を止めることなく。
「待てって!桃歌!」
すぐ後ろで声が聞こえる。桃歌を捕まえるためにディールがすぐそこまで迫っている。
「きゃあああああああああああ!!ストーカーよ!!助けてーー!!!」
桃歌は腹の底から思いっきり声を出す。びっくりした街の人々が一斉に桃歌たちに振り向く。
「なにしてんだ!あんちゃんよぉ」
「うぉっ、待て、俺はストーカーじゃない!離せ!」
桃歌が立ち止まって後ろを振り向くと、ディールが大男に首根っこを掴まれているのが見える。チャンスだ、と桃歌は急いで路地裏に入り、迷路のような道をひたすら走り続けた――。
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「はぁ、何やってるんだろう私……」
街を抜けた森の中。ディールを撒いてからもうずいぶんと時間が経った。木々に覆われる深い森の中は既にうす暗く、無暗に歩きまわれなくなっていた。桃歌は大きな木の下に腰をおろすと、体育座りをして膝に頭を埋める。
咄嗟にディールから逃げてしまったが、今考えるとなんであんなことをしたのかわからない。彼が桃歌を捕まえたければ、とっくに捕まっていただろう。少なくとも、彼ならば話せば分かってくれただろう。
桃歌は自分の行動がバカらしくてうっすら目に涙が浮かぶ。
「家に帰りたい……」
桃歌は消え入る声でそう、呟いた。
ずっと不安だった。
訳が分からないままこの世界にやってきて、塔の下にはドラゴンがいて……。最初の頃は絵本のように王子様が助けに来てくれるかもしれないって、ちょっとわくわくしたけど、日が経つにつれてそんな希望は消え去った。怖くて、寂しくて、もしかしたら一生このままなんじゃないかって思ったときもあった。
夜が来るのが怖かった。辺り一面闇に包まれて、静寂を破るようにドラゴンの唸り声や、森の中から獣の遠吠えが聞こえる。未知の世界で、星が綺麗に輝いていることだけが救いだった。そうやって何日も、何週間も、何カ月も彼女は夜を明かした。
お母さんやお父さんは元気にしているのだろうか?学校の友達は今何をしているのだろう。お姫様はどこへ行ったのだろう。もしかしたら、こんな生活が嫌でお姫様が押し付けたのかもしれない。
思考がどんどんネガティブになっていく。
――だれかたすけて
何度も何度もそう叫んだが、誰も来てくれなかった。
彼女は独りだった。
しかし、ドラゴンが塔から去り、ロロを保護してから彼女の生活は一変した。
話し相手ができた。喧嘩してばかりだったけど、この世界で初めてできた友達に彼女は何度も心を救われた。夜はいつもロロを抱いて寝た。もう夜を怖いとは思わなくなった。
ロロと過ごしているうちに、彼女の不安は次第に消えていった。
「ぁ……、そういえばロロを宿に置いてきちゃったな」
桃歌は度も一緒に寝た小さなドラゴンを思い出す。いつまでも帰ってこない彼女を心配してくれているのだろうか。ロロのことを考えると、桃歌は心が少し和らぐのを感じた。
でも……、ロロは自分のことを何も話してはくれなかった。人間だったときの名前、どこに住んで何をしていたのか。ロロはいつも誤魔化していた。
結局、この世界で桃歌のことを信用して信頼してくれる人なんて誰もいなかったのだ。
「お姫様がいたと思っていたあの塔が実際は王子様がの部屋だったなんて……。あの少女趣味全開の可愛らしい部屋が、王子様のものだったなんて……。王子が変態女装趣味だったなんて……、あんまりよ」
王子の代わりがに桃歌があの塔にいたのだったとしたら、王子が助けに来てくれることなどありえなかったのだ。いい年こいて夢見ていたのがバカみたいだ。
「ほんと、バカみたい」
抑えきれずに涙が溢れ出す。何度拭っても止まることなく流れ続ける涙。桃歌は次第に疲れきって眠ってしまった。
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目を覚ますと辺りは真っ暗闇だった。木々に覆われて星も、街の明かりも見えない。
先ほどまでのどうしようもない不安とは別に、恐怖が桃歌を襲う。夜の冷たい風が肌に突き刺さる。聞こえるのは木々のざわめきと虫の音だけ。
「街はどの方角だっけ?」
桃歌は立ち上がって辺りを見回すが方角が全く分からない。
「どうしよう……」
ガサッ
突然桃歌の背後で茂みが揺れる。
「冗談はやめてよね」
揺れる茂みを見つめながら、一歩一歩後ろに下がる。桃歌の望みとは裏腹に、茂みの音が少しずつ大きくなる。
「だ、だれか……」
桃歌は震えながら声を絞り出す。
ガサガサッ
茂みの中にギラリと光る眼を見つけたと同時に、獣が桃歌に向かって飛び出してくる。
「助けてーー!!」
遂に桃歌の恐怖が限界に達したとき、彼女は無我夢中で叫びながら、迫りくる獣を殴り飛ばした。
「ぐはっっ」
「いったぁ!」
獣は潰れたカエルのような声をあげると、地面に落ちる。桃歌は殴った衝撃が予想以上に痛く、その場でうずくまってしまう。まるで鉄を殴ったような感覚だった。
自分はいったい何を殴ったのだろうと、彼女は地面に落ちた獣を恐る恐る確認する。
「ロロ!?」
そこには小さなドラゴンが落ちていた。
「ごめん、ロロ!わたし、獣だと思って」
「うっ………いや、俺は大丈夫だ。ドラゴンはそんなに軟じゃない。それよりお前は大丈夫なのか?」
何者も突き刺すことができない鋼の鱗を持つドラゴンだ。人間の少女が殴ったところでダメージは無いだろう。
「すごく痛い。もしかしたら折れちゃったかも……」
「お前なぁ、女の子が骨折れるほど思いっきり殴るなよ」
ロロが呆れたように言う。
「ごめんなさい、独りで怖くて――」
誰も助けに来てくれないって思ったから。
「今日はやけに素直なんだな。調子が狂う」
「バカ」
ロロはいつものように軽口をたたく。
「桃歌、帰ろう。ディールも心配していた」
「……うん」
ロロは飛び上がると、桃歌を誘導するように進んでいく。
さっきまで疑心暗鬼になっていたが、桃歌の心が晴れていく。
――またロロに助けられちゃったな
桃歌の顔に自然と笑みができる。前を飛ぶロロに聞こえないように彼女は小さくお礼を言った。
「ありがとう」