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暖かい朝だった。
いい匂いの朝でもあった。
そして眠たい朝だった。
オルテガの『魔法論序説』は、睡魔を撃退してくれるような本ではない。
少なくとも私にとっては。
入門書とはいえ、一流の魔法使いが書いた専門書なのだ。
すでに魔法の基礎を学習済みの人間を対象に書かれていて、専門用語もビシバシ登場する。
はっきりいって、こむずかしい。
私もいちおう基礎くらいは修めたつもりでいたけれど、読み進むほどに自信がしぼんできた。
慎重に一語一語を咀嚼していかないと、文意がすぐあやふやになってきて、どの行をなぞっていたのかすら見失いがちだった。
世の中には、10歳になるまでに丸暗記してしまう天才もいるというのに、このていたらくだ。
こんな私が53年後には『涯ての魔女』?
前人未到の再生魔法を完成?
悪い冗談である。
1次発酵を終え、2倍にふくらんだパン生地に、私は拳をたたきつけた。
連続パンチ。
6発で全体がひらべったく潰れた。
てのひらで均してから、机の上に敷いた板に移した。
板には、生地がくっつかないように最小限の粉がふってある。
生地にも粉をふりかけて、麺棒をつかって延ばした。
四角形っぽくなった生地を、包丁で半分に切る。
さらに半分。
もひとつ半分。
もういっかい半分にして、16枚に分けた。
ちょっと大きめになったものからちょっとずつ切り取ったのを集めて、プラスもう1つ。
計17個分のパン種が完成だ。
1個1個を、縦長の二等辺三角形に延ばした。
くるくると丸めて、ロールパンにする。
バターを塗った鉄板の上に、隙間を空けて並べて濡れ布巾をかぶせた。
そのまま放置。
2次発酵スタート。
これが終わったら、いよいよ焼くだけである。
『……なにゆえに再生が罪なのか。
生きることが罪だというのか』
法廷では、証人尋問がはじまっていた。
証言台に立っているのはギドネイル・ガルガ。
王国で3番目に大きな島を治める大貴族だ。
昨夜、パーティーが開かれた屋敷の持ち主であり、主催者マギサの父親である。
『再生禁止法が正しいかどうかなんて、そんな議論をはじめる気かい?
いまさら再生罪の是非なんて……』
アルフレッドが鼻で笑った。
『バカバカしいとでも言うのか。
私に言わせれば、再生禁止法こそバカバカしい』
『絶対法典を否定するのかい?
それじゃレバスと一緒じゃないか。
きみまで王家に反逆するっての?』
『私は王家を侮辱しているのではない。
バカな法をバカと呼んだだけだ』
『それがいけないんだよ。
イザベル女王陛下の遺言、忘れたの?』
『……絶対法典の一字一句たりと改竄することまかりならぬ。
絶対法典こそが王家であり王国である。
王国が存続するかぎり絶対法典は神聖不可侵であり、あえに絶対法典である』
『ちゃんと憶えてるんじゃないか。
ソラで言えるなんて偉い偉い』
『偉大なる女王陛下のご遺言だ。
記憶するのは臣下の義務であろう』
『それだけ偉大な女王陛下が著された絶対法典を否定したんだよ、きみは。
よりにもよって「バカ」とまで言ったんだ。
立派な侮辱だ』
『イザベル女王陛下は偉大な王であらせられた。
いまも私の最も尊敬する政治家だ。
だが、一人の人間として見た場合、いささか性格に難があったと申し上げざるを得ない』
「まあ、なんて言い草でしょう!」
ギドネイルの発言が終わらないうちに、法典イザベル自身が金切り声をあげた。
イザベルの発話機能は、複数の音声を同時に発声できる。
『法廷中継』の音声をバックに、イザベルはまくしたてた。
「侮辱ですわっ、国辱ですわっ、不敬罪ですわっ!
この、ほっぺたタプタプ爺ぃっ!」
やかましいったらありゃしない。
イザベルの抗議は、だが肝心の法廷には響かなかった。
絶対法典の本体には、発話機能はないのだ。
本体には、無駄な飾りはいっさいついていない。
その巨大さだけで、じゅうぶんに威厳を放っている。
女王の間では、ギドネイルが朗々と自説を展開していた。
『再生禁止法、代王制度、絶対法典……。
正直に申し上げて、これらの法が聡明なる理性の産物であるとはとうてい信じられない。
失礼ながら、イザベル陛下の国王としての面ではなく、あの方の人間としての感情が産み落としたものと私には思える』
「何様のつもりですのっ!? ハゲ頭の分際でっ!」
頭髪の密度は関係ないでしょ。
『私が思うに、イザベル陛下は生涯にわたってある感情に支配されておいでだった。
すなわち、姉君イスカッツェル殿下への嫉妬の情だ。
つねに冷静であられた陛下が、イスカッツェル殿下の関わる物事に触れると途端に感情的になられた場面に出会ったことのある者は、私だけではないはずだ。
俗っぽい言い方をすれば、イザベル陛下にとってイスカッツェル殿下は目の上のタンコブであらせられたのだろう』
「どうして私が姉上に嫉妬するんですのっ!?
偉大なる女王の私がっ! よりにもよって姉上ごときにっ!」
はいはい。
『ごとき』で悪かったわね。
だが興味深い話だった。
イザベルは私に嫉妬していたのか。
でもなぜ?
イザベルが言ったとおりで、偉大かどうかは個人の判断によるだろうけれど、我が妹が女王だったのは事実。
ひるがえってみて、私が知るかぎり死ぬ前の私は一介の魔法研究者ごときにすぎず、挙句の涯てには大犯罪者ごときである。
嫉妬するなら、私がイザベルに対して、だろう。
あべこべだ。
もちろん、私の疑問なんかにギドネイルが答えてくれるはずもなかった。
そもそも、私が聞いていることすら彼は知らない。
『金輪際、変えてはならぬ法などナンセンスの極みだ。
国情は時によって変わる。
法も時代に即して変えていかねば、国を乱す原因となってしまう。
イザベル陛下ご自身がそれまでの法を変え、絶対法典を作られたではないか。
ご自身がなさったことを他者にするなと強制するなど、ご偏狭にもほどがあらせられる』
『それは、きみの理解が間違ってるんだ』
アルフレッドの声は落ち着いていた。
『イザベル陛下はね、法を完成なされたんだ。
不完全だったそれまでの法の不備を直して、完璧な形に修正されたんだよ。
完成した法の、どこを変える必要があるってんだい?
変えたら未完成品に逆戻りさ。
だから絶対に変えちゃいけないんだ』
「その通りですわ。グッジョブよ、アルフちゃん」
イザベルに手があったら拍手していただろう。
そのくらいのはしゃぎようだった。
『イザベル陛下は正しかったんだ。
きみがどう思おうがね。
再生禁止法も、絶対法典も、代王制度も!
再生を禁止したことのどこが間違いだというんだい。
死にたがっている人を殺しても罪になるんだよ。
生きたくない人を生き返らせたら罪になるのは当然じゃないか』
『ならば医者も罪人か。
自殺を試みた者を治療するのは罪か』
『医者が相手にしているのは生きている人間だよ。
それは医療行為と呼ぶべきことだ。
再生魔法は死者の眠りをさまたげる。
それは死への冒涜。
ひいては生命への冒涜だよ』
『苦しい言い訳だな』
『世界は滅びかけているんだよ。
この世界が養える人口には限りがあるんだ。
1人の人間が消費していい資源には制限があって当たり前じゃないか。
死ぬたびに再生して、何人分もの資源を使おうなんて強欲だよ。
許されていいはずがない』
『資源には限りがある。
さよう。
だからこそ優秀な人材に優先して配分し、劣っている人間の分まで生きさせるべきとは思わんかね』
『なんてことを言うんだ。
生きていい人間と、生きる価値のない人間がいるとでも言うのかい?』
『言って悪いかね。
滅びかけたこの世界にも、驚くほど多くの人間が生きている。
そのすべてに生きる価値があるとは、私には思えない。
家畜ならば殺して食料にできるが、人ではそうもいかないから始末が悪い。
この世には生きる価値のある人間と、生きるだけ無駄な人間がいる』
『とんでもないことを言うね……』
『怖気づいたか。
さもあろう。
真実は恐ろしいもの、と相場が決まっている』
『何様のつもりなんだ?
神にでもなったつもりかい?』
『まさか。
私は人間だ。
人間だからこそ、人間の気持ちがわかるのだ。
誰もが心の底では、こう思っている相手が1人くらいはいるはずだ。
「あんなヤツは死んだほうがいい」
とな。
誰もが胸のなかでは、生きるべき人間、死ぬべき人間の線引きをしている。
君はしていないのかね?』
『さっきと言っていることが矛盾してないかい?
きみは「生きることが罪だというのか」と再生禁止法を批判したんじゃなかったっけ。
なのに、それじゃまるで……』
『私は問いかけただけだよ。
問うただけでは無責任だったな。
私なりの答えを述べるとしよう。
生きることが罪であるかどうかは「人による」だ』
法廷が静まり返った。
ギドネイルの指摘が正鵠を射すぎていて、誰も反論できないのかというと、そうではなかった。
アルフレッドは、そんなにヤワではなかった。
『へえ。
じゃ、きみに質問だ。
昨夜、毒を飲んで死んだお嬢さまがいたんだけど、そうそう、マギサとか言ったっけ。
彼女は生きる価値のある人間なのかな?
それとも価値のない人間かな?』
『……』
『ふふん。
価値のある人間と、ない人間か。
興味深いお話だったけど、ぼくに言わせればお笑いもいいところだよ。
もし区別するとして、基準はなんなんだい?
知能テストでもするの?
資産の額で選り分けるのかな?
まさか血筋で決めるなんて言わないよね?』
半笑いしながら言って、アルフレッドの口調がふいに鋭くなった。
ナイフで突き刺すみたいに、グサグサと。
きっと怒ったんだと思う。
『きみがこうして偉そうに発言できるのは、なんのおかげなんだい?
優秀な人材だからだっての?
広大な領地をみごとに経営しているから?
バカ言っちゃいけない。
もとをただせば、たまたま大貴族の家に生まれたから、じゃないか。
大貴族の血を引いていますってだけで、他人の命の価値を決めてかまわないっての?
思い上がるなっ!
……まったく、再生魔法だなんて、とんでもないオモチャを作ってくれたもんだよ。
おかげで世の中バカばっかりだ。
遊び半分に死にたがるバカやら、他人の命に偉そうに文句つけるバカやら、うんざりなんだよ』
後半はほとんど独り言だった。
ブツブツと愚痴ってから、アルフレッドは話を引き戻した。
『無駄話はここまでだ。
きみを呼んだのは、イザベル陛下の偉業にケチをつけさせるためじゃないんだからね。
昨夜、きみの屋敷で開かれた再生パーティーの主催者は、きみの娘マギサ嬢だとされている。
間違いはないかな?』
『わからん。
私のあずかり知らんことだ』
『ちょっとちょっと。
現場はきみの屋敷だったんだよ。
召使たちの証言もとれている』
『私は王都に3つの屋敷を所有している。
すべてに目を光らせてはいられんよ。
だが、まあ、我が不肖の娘がそうした愚かな宴を催したと聞かされても、いまさら驚きはせんね』
『まるで他人事なんだね。
ひどい父親だ。
じゃ、昨夜の再生パーティーはマギサ嬢がしたことで、きみ自身は関わっていないっていうことだね?』
『関わっていない』
『本当かい?』
『神に誓おう』
『きみが神を信じているとは思えないんだけどね。
質問を変えよう。
レバス・ラスイールが「虹の壁」を越えてくるには、こちら側に協力者が必要だったはずだ。
きみじゃないのかな?』
『私が彼を「招いた」と?』
『ああ』
『言いがかりだな。
私ではない』
『本当かい?
もちろんきみ自身だけじゃなくて、きみの部下も含めてだよ?』
『違う。
神に誓って』
これじゃ証人尋問というより、『容疑者その2』への尋問だった。
どうやらアルフレッドは、ギドネイルがレバスの共犯者であると疑っているらしい。