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何だろうと、たぶんそうなのだと思うのだが。
それなりのものを作るだけなら、そう難しいことはない。
ところが、ちゃんとしたもの、他人から評価してもらえる優れたものを作ろうとした途端、それはとてつもなく難しくなる。
世の中のほとんどの物事が該当しそうなこの法則は、もちろんパン作りにもあてはまる。
大きな真鍮製のボールにパンの材料を全部ぶちこむと、私は素手で混ぜ合わせはじめた。
青白い朝の光がさしこむ部屋で、せっせと手を動かす。
ネチャネチャした泥みたいだった感触が、だんだん粘り気が強まっていき、まとまるようになってきた。
ひとつの塊になったそれを、打ち粉をふった台に移して、ときどきバンバンと叩きつけながら腰を入れてこねる――なんて本格的なことは、私はしない。
後片付けが面倒だし、打ち粉だってもったいない。
こねる作業のすべてを、私は床に置いたボールの中ですることにしていた。
他人が褒めるようなパン、プロのパン屋が売るようなパンを、私は作れないし、作るつもりもなかった。
自分だけが食べるパンである。
そりゃ美味しいに越したことはないけど、食べられさえすれば文句はなかった。
舌が肥えてるほうじゃないし。
いつも冷え切っている私の部屋も、パンを焼く朝だけは暖かい。
暖炉を改造した竈に火が入るからだ。
配給制の薪を、私は決して暖房には使わないことにしている。
パンを焼くためにとっておくのだ。
でなければ、個人でパンを焼くだなんて贅沢が許されるはずもなかった。
私が囚人だから許されないのではない。
『オルテガの星落とし』のせいだ。
魔王オルテガの大魔法で、世界は滅んだ。
緑色と茶色の大地も、青くて塩辛い海も、いまはない。
赤黒くて酸っぱい泥水に、すべてはのみこまれた。
人々はわずかばかりの陸地の切れ端を魔法で空に浮かべて、どうにかこうにか、生き延びることに成功したのだった。
滅んだ後の世界は、滅ぶ前の世界とは比べものにならないくらい貧しかった。
犯罪者だろうと無辜の市民だろうと、1人が消費していい資源の量は限られている。
消費、という言葉は妥当ではない。
消えてなくなるものなど、この世にはないのだ。
目には見えにくくなっても形を変えて万物は循環している。
循環してもらわねば困る。
『冬の時代』
星落としがあってから数十年くらいまでは、現代のことをそう呼んでいたらしい。
いずれ終わり、春という暖かい季節がめぐってくるだろうと期待をこめて。
ところがいくら待っても春は来なかった。
100年が過ぎると、誰も冬だなんて言わなくなった。
寒いのがあたりまえになって、みんな慣れっこになってしまったのだ。
比喩表現としてではなく、じっさいに世界は冷えこんでいた。
寒いのだ。
骨の髄まで凍えるくらい、毎日毎日、情け容赦なく寒いのだ。
高空を浮遊する島の上は空気が薄く、そもそもの気温が低い。
それに加えて、衰えた世界は太陽熱を蓄えることすら満足にできなくなっていた。
想像もできない。
雪が水のまま降る、雨なんてものがあったなんて。
下着同然の服装でいても、汗が止まらないくらい暑い季節があったなんて。
私の指先はいつだってかじかんでいる。
例外は、ベッドで布団にくるまっているときくらいだ。
幼い頃から、ずっとそうだった。
暖かさは、最高の贅沢である。
パンを焼く朝だけ、私はこの贅沢を満喫できるのだ。
こねあがった材料を、まんまるくまとめる。
ボールの真ん中に鎮座させて濡れ布巾をかぶせると、竈のそばの床にボールごと運んだ。
このまま安置。
一次発酵の開始である。
パン生地ははやくもパンの匂いを放っていて、つられてお腹がクルクルと鳴いた。
言っておくが、私が意地汚いからじゃない。
起きてからまだ何も食べていないのだ。
我慢、我慢。
もう少しの辛抱で、焼きたてのパンにありつけるのだ。
どうせたいしたパンじゃなくても、焼きたてだけは格別だった。
空腹というスパイスが加われば鬼に金棒、オルテガに星、はやい話が無敵である。
1次発酵が完了するまで1時間弱。
とりあえずすることがない。
私は椅子に腰掛け、頬杖をついた。
簡素な部屋である。
窓がひとつ、ドアがふたつ――ひとつはトイレだ――。
竈、戸棚、水瓶、机、椅子、ベッド、本棚……以上で家具は全部だ。
独房としては上等なほうだろう。
部屋から出ないかぎり何をしようと自由なのだから、破格の待遇といえる。
ほんと、ありがたくって涙が出ちゃう。
昨夜は身体中に嵌められていた枷も、いまは首のひとつだけである。
こいつだけは、何があっても外せない決まりだった。
『魔法論序説』でも読もうかと、本棚に近づいた。
黒い表紙の、辞書みたいに分厚い本だ。
著者名は『オルテガ・タナートシス』。
まだ魔王と呼ばれていない頃のオルテガが著した、魔法使いを志すすべての者に向けた入門書だ。
よっこらせ。
やたらと重い『魔法論序説』を机に運んだときだった。
『……これより、裁判をはじめる』
机の上に置きっぱなしだったもう一冊の本から、ひび割れた音声が発せられた。
なるほど。
今朝は静かだと思ったら、この段取りで忙しかったのか。